プロレス的発想の転換のすすめ(49)魂が触れ合う瞬間:ロックアップ考察
闘いのはじまり
今回は遅まきながらロックアップの話です。
SNSで炎上したロックアップ論争に便乗するわけではないですが、私は「ロックアップ=闘いのはじまり」だと思っているので、この機に私見を述べさせていただきたいと思ったのです。
そもそもロックアップの由来は、片手で相手の頭を自分の懐に引き込みつつ、もう一方の手で相手のそれを防御する、という攻防です。
この体勢を「レッスル」と言います。レッスルより始めるからレスリングなんですね。
プロレスがレスリング由来である重要な部分です。
「組手」としての意義
このレッスルの部分って、私は「組手」なんじゃないかと思っています。
この組手があるなしっていうのは、結構重要で、街の喧嘩や、なんでもあり寄りの総合に、組手はまずないと思います。
誤解を恐れずに言えば、組手があるものは明確に「コンタクト・スポーツ」なのではないかと思います。
相撲、アマレス、空手、柔道など、組手が存在する格闘技は決して少なくありません。
テーズとゴッチの真髄
ここで「鉄人」ルー・テーズ選手と「プロレスの神様」カール・ゴッチ選手に触れないわけにはいきません。
お二人のロックアップは、単なる試合の開始合図ではなく、相手を支配するための「技術的序章」でした。
テーズさんのロックアップは、相手の重心を瞬時に読み取る「触診」であり、そこから流れるようなバックドロップへの布石でした。
一方、ゴッチさんのロックアップは、触れた瞬間に相手の自由を奪う「制圧」。
このお二人が築いた「組んでから仕留める」という論理的な闘いこそが、日本プロレス界の正統な血脈となったのです。
現代に息づく鉄人の血
では、現代の選手はどう継承しているのか。
令和の時代において最もテーズさんの香りを漂わせているのは、組んだ瞬間に、あえて相手をロープに押し込み、そこでクリーンに離れる際に「胸をポンと叩く」仕草を見せる場面です。
これは単なる挑発ではありません。
組んだ瞬間に「自分のほうが懐が深い」ことを確認し、精神的・技術的に優位に立ったことを観客に示す、極めて高度な「会話」なのです。
神様の技術を紡ぐ者
一方で、ゴッチさんの「制圧するロックアップ」を最も色濃く継承しているのが、ザック・セイバーJr.選手です。
彼の試合を分析すると、ロックアップから始まるチェーン・レスリングの密度が異常に高いことがわかります。腕を絡ませたコンマ数秒後には、相手の手首や関節が極められている。
これはゴッチさんが習得した「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」の現代的解釈です。
ロックアップという入り口から、迷路のような関節技の地獄へ引きずり込む。
そこには「組む=逃げ場を奪う」という冷徹な闘いの論理が生きています。
昭和と現代を繋ぐ線
昭和の馬場さんや猪木さんが守り抜いた「組む=闘い」の概念は、形を変えながらも、今のトップレスラーたちの中に確実に息づいています。
UWFが出現し、打撃の間合いが主流になった時期もありましたが、結局のところ、プロレスという闘いの深みは「触れ合った瞬間」に生まれます。
現代の選手がロックアップで見せる「間(ま)」や、ザック選手が見せる「執着」は、かつてテーズさんやゴッチさんがリング上で見せた、あの張り詰めた空気そのものなのです。
超私見ロックアップ考察
今回の話をまとめていうと、以下の三点になります。
- ロックアップはレッスルであり、テーズやゴッチが磨いたレスリングの真髄である。
- ロックアップは「闘い」の意志確認であり、オカダやザックのような現代の名手もこれを重んじている。
- 組むことで生まれる「会話」こそが、大技に至るまでの物語を紡ぎ出す。
ロックアップで始まり、魂を削り合う。この一連の流れは、時代が変わっても揺るがないプロレスの本道です。
先人たちが磨き上げた技術の断片が、今のリングで火花を散らす。
その繋がりを感じ取ることこそ、観客にとっての至福ではないでしょうか。
最後になりますが、個人的には、ロックアップ騒動の渦中にある現役選手は、私が観る限り責められるほど基礎ができていないとも考えていません。
そして決して擁護する気もないことを言っておきたいと思います。
また、注文をつけた元選手に対しても、全く思うところはありません。
この「超私見ロックアップ考察」が、プロレスという名の「闘い」が、過去から未来へと紡がれる壮大な大河ドラマであることを再確認するきっかけとなれば幸いです。
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