プロレス的発想の転換のすすめ(118)介護という名の過酷な闘い
親の老いというゴング
プロレスとは縁遠い話題に思えるかもしれませんが、今回は介護とプロレスのお話です。
親が存命なうちは、私たちは等しくこの問題から逃れられません。
それは、ある日突然鳴り響く試合開始のゴングのようなものです。
自分が立つべき戦場
ここでは、現在進行形で介護に直面していた私の体験をシェアしたいと思います。
今振り返れば、この過酷な状況こそが、当時の自分が立つべき「戦場」であったのでしょう。
多様な介護のスタイル
介護の形態は人それぞれです。
デイサービスに通うスタイルもあれば、有料老人ホームに入所するスタイルもあります。
私の母の場合は、かつて週4回のデイサービスを利用しながらの自宅介護という形をとっていました。
予期せぬ場外乱闘
ケアマネージャーさんと相談し、当初は足腰のリハビリを目的とした入院をしてもらい、その間に施設を探す予定でした。
しかし、その後母が喘息を患い、国立病院へ救急搬送されるという、想定外の「場外乱闘」が起きたのです。
病院からの強制退院
搬送先の国立病院には呼吸器科の常勤医がおらず、急遽別の病院へ。
しかし、認知症が進行していた母が医師や看護師さんに暴力を振るってしまい、強制退院を命じられました。まさにレッドカードを提示されたような衝撃でした。
暴力という高い壁
母は肺炎だけでなく膠原病も併発しており、本来は入院が必要な状態でした。
しかし、暴力を振るう患者を受け入れてくれる施設はまずありませんし、どれほど対価を払おうとも、四六時中暴力に晒されるのは、人間として不可能なことだからです。
穏やかな父との違い
要介護認定も現状維持という厳しい判定が続き、週4のデイサービスを頼りに、私自身の治療と並行して何とか凌いでいました。
晩年の父の場合は認知症が進んで穏やかになったため、受け入れもスムーズでしたが、それは非常に運が良いケースだったのです。
孤独なケアラーの絆
現在の行政は若者支援に重きを置いていますが、世代を問わず困窮している人は大勢います。
病院の待ち時間、同じケアラーと思われる方々の会話が耳に入ります。
皆、誰にも言えない過酷な「闘い」の真っ只中にいるのです。
非日常という救い
私と同じように、自身の病と闘いながら、生活を崩壊させないよう家族を支えている方々には頭が下がります。
プロレス会場で味わう、あの何気ない「非日常」がいかに貴重な時間であったかを、今痛切に感じています。
時に逃げる勇気を持つ
あの非日常の空間へ返り咲くためには、目の前の地獄から時に目を背けてもいい。私はそう思います。
無責任に放置するのはいけませんが、真面目な人ほど自分を削ってしまいます。
時には交替して場外で息を整える時間が必要です。
共倒れを防ぐセルフケア
介護における最悪の結末は、介護される側とケアラーが「共倒れ」になることです。
介護は想定外の連続であり、立てた計画が一瞬で覆されます。
思い通りにいかないストレスは、まさにアイアンマンマッチのような消耗を強いてくるのです。
経験を語れる日まで
私には、この地獄を生き抜いた先で、いつか「日常」の場で、この知見と体験を肉声でシェアしたいという目標があります。
それまでは耐え忍び、自分自身のケアを怠らずに一歩ずつ進んでいきたいと考えています。
自分自身のケアという闘い
プロレスには「受け身」という技術があります。
相手の猛攻を無防備に受けるのではなく、衝撃を逃がし、自らの体を守るための必須技術です。
介護という終わりの見えない連戦において、心の「受け身」を取ることは、決して逃げではなくプロとしての自己管理と言えます。
休むことの大切さ
かつて、大きな怪我や逆境を乗り越えてリングに帰還したレスラーたちは、必ずと言っていいほど「休むことの大切さ」を口にします。
人間心理において、自分を後回しにする「自己犠牲」は一見美しく見えますが、それではスタミナが持ちません。
例えば、介護の合間にプロレスの試合映像を観ることは、単なる娯楽以上の効果があります。
不屈の精神で立ち上がるレスラーに自分を投影し、感情を爆発(シャウト)させることで、抑圧されたストレスを「浄化(カタルシス)」できるからです。
戦う主人公へ
また、お気に入りの選手の入場曲を聴きながら家事をこなすだけでも、自分を「戦う主人公」へとモードチェンジさせ、心の折れる音をかき消してくれます。
リングサイドで声を枯らして応援するように、時には自分自身に対しても「頑張っているぞ!」と声援を送ってあげてください。
自分をケアし、心のスタミナを回復させること。
それもまた、この過酷な人生を生き抜くための、立派な「闘い」なのです。
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