プロレス想い出回想録・想い出に残る博多のプロレス③切なすぎたライバル闘争・前編
やるせない一年
1990年という年は私にとっては非常にやるせない一年でした。
それを象徴するかのような、新日本プロレスの大会が博多スターレーンでありました。
人身事故の加害者に
新日本プロレスは6月にバトルライン九州、STRONG HOLD IN FUKUOKA (シリーズ名:バトルライン九州)という福岡国際センター大会を超満員で大成功させていました。
当時私は人身事故の加害者になり、日々被害者のもとに出向く毎日を過ごしていました。
バトルライン九州PART II最終戦
そんな生活から逃げるようにしてプロレスを求めて、私は11月に再び博多の地へ向かいました。
バトルライン九州PART II最終戦(1990年11月28日)、会場は博多スターレーンでした。
福岡国際センターすら満員にする当時の新日本には、博多スターレーンはあまりに狭すぎる会場でした。
メインは藤波対剛
テレビ中継もはいり、本当に凄い熱気の会場の中で、メインをとったのは、かつてジュニアヘビー級時代に凌ぎを削った剛竜馬と藤波辰爾の一騎打ちでした。
この当時、剛竜馬は日本初の本格的インディ団体、パイオニア戦志旗揚げ後、パイオニア軍団として、古巣新日本の外敵として上陸していました。
敗者追放マッチ
セコンドには盟友、青柳館長をつけ、5月から続いてきた軍団抗争に決着をつけるべく、このメインイベントは敗者追放マッチとなっていました。
ですが、1989年4月30日に、大仁田対剛のシングル対決をメインイベントとして行ったパイオニア戦志の旗揚げ戦は、藤波さんに試合内容を酷評されていました。
練習不足は明らか
さらにパイオニア軍団として乗り込んだ5月4日の緒戦(剛&高杉対長州&佐々木健介)では勝利したものの、練習不足なのは明らかで、またもや藤波さんにダメ出しされてしまいました。
10月の移動中の交通事故を乗り越えて挑んだ藤波さんとのシングルに剛自身は相当な覚悟でいどんだと思われます。
眼すら合わせない
しかし、藤波さんをまっすぐ見据える剛とは対照的に、目すらあわせない藤波さんは本当に冷たく感じました。
あれほど温かみのある藤波さんがあれほど冷酷な顔をして試合をしていたのは、かつて記憶にないことでした。
あまりに場外が長いので
序盤では剛が奇襲をあっけて場外戦に挑むものの、藤波さんに切り返されます。
場外でも攻勢に転じた藤波さんは剛を流血に追い込みます。
あまりに場外戦が長いので会場からは「あがれ」コールまでおきてしまいます。リング内にあがっても、すでにスタミナ切れしている剛は口をあけて呼吸をしています。
容赦なかったドラゴン
そこへ容赦なくグラウンドで畳みかけていくドラゴン。多少剛が反攻に転じる場面もあるのですが、藤波さんにはダメージをあたえられていません。
誰とでもいい試合を作る藤波さんがリング上で、突き放したような態度で接していたことも、かみ合わない要因でもありました。
しかも、剛はあげくの果てに藤波さんのフライング・エルボー・バットに沈み、パイオニア軍団の追放が決定したのでした。