私的プロレススーパースター烈伝(109)ダスティ・ローデス
アメリカン・ドリーム
今回お話するダスティ・ローデス選手は、アメリカでは70年代から現在まで、プロレスファンならばその名を知らぬ者はいないビッグネームです。
彼は「アメリカン・ドリーム」のニックネームで知られ、NWA、WCW、WWEなどのプロレス団体で活躍しました。
ショーマンスタイル
ローデス選手は130kgを超える巨体ながらも素早い動きを見せ、コミカルなショーマンスタイルで1970年代から1990年代にかけて人気を博しました。
また、ラフファイターとしても知られ、ブルロープ・マッチやデスマッチ形式の試合で流血戦を演じたこともあります。
多大な貢献
彼の実子であるダスティン・ローデス選手と異母兄弟のコーディ・ローデス選手もプロレスラーとして活動しています。
晩年はWWEの重役として、またWWE・NXTではGMを務め「コミッショナー」と呼ばれるなど、プロレス界に多大な貢献をしました。
初来日は国際プロレス
ディック・マードック選手とのジ・アウトローズとしても活躍し、その後、GIカットからカーリーヘアの派手なスタイルに変身し、アメリカでもベビーターンし、「アメリカンドリーム」の愛称で全米一の人気者となります。
日本との関係も深く、初来日は国際プロレス、1975年11月には全日本プロレスに登場します。
高く評価していなかった
しかし、ローデス選手の全日本参戦はこれが最初で最後でした。
オープン選手権の開幕戦におけるハーリー・レイス戦は日本でのベストバウトと言われていますが、馬場さんはローデス選手をあまり高く評価していなかったらしく「レスラーとしては何から何までマードックの方が上」と語っています。
新日本初参戦
1979年10月には新日本プロレスに初参戦します。当初新日本プロレスとのスタイルの違いを懸念する声もあったのですが、WWFとの提携が軌道に乗り新日本のアメリカン・プロレス色が強くなっていた時期で、アメリカ同様に日本でもファンの支持を獲得します。
以降も新日本の常連外国人となり、平成に入るまで来日を続けました。
バイオニック・エルボー
アメリカでの活動が多忙のため1週間程度の特別参加が多く、シリーズを通しての参戦は困難だったものの、1980年5月27日には大阪府立体育館において、当時バックランドが保持していたWWFヘビー級王座に挑戦しています。
ローデス選手の得意技はバイオニック・エルボーで、特にエルボー・バットは相手の顔面に右ジャブを数発放った後、両腕を糸巻のようにくるくる回転させて、そこから右肘を相手の脳天に垂直に打ちつけるパフォーマンスが人気でした。
尻振りダンス
またローデス選手のパフォーマンスとして有名なのが「尻振りダンス」で、これは相手を倒した後、尻を左右にクリッ、クリッと振る動作のことです。
アメリカでこれをやると観客は沸いたのですが、これを見た馬場さんは「こんなのが流行るのだから、アメリカというのはわからん国だ」と呆れていたといわれています。
人気を見れば超一流
このように典型的なアメリカン・ショーマンスタイル・レスラーですが、人気を見れば超一流だったことは間違いありません。
NWA世界ヘビー級王座を3回獲得していることを考えても、アメリカでの彼への評価が高いことがわかります。
ベビーフェース転向
シングルプレーヤーに転向後はベビーフェースに方向転換し、アメリカでもっともファイトマネーを稼ぐスーパースターのひとりに変身しました。
1974年5月14日=フロリダ州タンパでローデス&パク・ソン対エディ&マイクのグラハム親子のタッグマッチがメインで組まれました。
伝説の試合
試合途中、この時点ではヒールだったローデス選手にはパートナーのパク・ソン選手とマネジャーのゲーリー・ハートさんが突然襲いかかり、イス攻撃と鉄柱攻撃でローデス選手を血だるまにしたのです。
これに怒った観客が暴動を起こし、地元タンパの警官隊が出動し、興奮してリングに飛び込んだ10数人の観客が半失神状態のローデス選手を抱き起こし、ドレッシングルームまで運んでいったという“伝説”があるのです。
誰からも愛される
これが“アメリカン・ドリーム”誕生の瞬間だったといわれています。
ローデス選手は、南部なまりまる出しで身ぶり手振りとコミカルな動き、バイオニック・エルボーと呼ばれたエルボードロップをトレードマークに、白人ファン層からも黒人ファン層からも愛さる存在に変身したのです。
ベストバウト
さて、ここからは私が見たダスティ選手のベストバウトを語ってみましょう。
それは93年の1月4日東京ドームで行われたダスティ親子対マサ斎藤&キム・ドク戦です。
超戦士IN闘強導夢
この超戦士IN闘強導夢は、私がはじめて東京ドームでプロレス観戦した思い出の大会。そして「1.4」で最初に行われたドーム大会です。
前年のスターケードIN闘強導夢に続き、WCWのスーパースターが大挙参戦していた大会でしたが、試合内容は新日本寄りというか、日本人選手が外国人選手を迎え撃ってやっつけるという、オールドファッション・ストロングスタイルな感じのものばかりでした。
異質だった第五試合
悪くはないけど、正直スタンド席には届かない試合ばかりでした。
しかし、この第五試合はその中でも異質だったのです。それは日本がホームのはずのマサ&ドク組が悪役で、ローデス親子がそれをやっつけるヒーローとして展開したからです。
本場のアメプロに
アメリカならばこの図式で試合が成り立ちます。実際、マサさんにしろ、キム・ドクこと、タイガー・チャン・リーとしても名高いタイガー戸口さんにしてみれば、日系悪役というのは、得意分野なわけです。
結果、この第五試合は全大会中でも超異色な本場アメリカンプロレスになったのです。
狂喜乱舞
ダスティ・ローデスのベビーフェイスぶりも半端なかったし、まだキャリアの浅かったローデスジュニア(現・ゴールダスト)も、必死になってベテラン勢に食らいついていきました。
日本でまさか本場のアメリカンプロレスがみられるなんて思いもしなかったから、私は東京ドームで驚喜乱舞したのを未だに忘れられません。
未だに忘れがたい
私にとって、ローデス親子との試合は、未だに忘れがたい名勝負の一つになっているのも、たぶん名選手としてのマサ斉藤さんの職人芸があったからでしょう。
そのベースは日系悪役としてアメリカで築き上げられてきたものです。
後世に語り継がれるべき
ダスティがマサさんをコーナーに追い詰めて、マサさんが手を前に出して「待ってくれ」と懇願。でも手を緩めると、即座に反撃するというリック・フレアー選手も使っていたおなじみのムーブは、アメリカンプロレスの真骨頂であり、ストロングスタイルではありえなかった光景でした。
そんなアメリカンプロレスと新日本を結びつけたマサさんの功績は、もっと後世に語り継がれてしかるべきものではないだろうかと私は今でもそう思っています。