私的プロレススーパースター烈伝#79 新崎人生
俳優を目指して上京
本日はリクエストにお答えをいたしまして新崎人生選手の話をしてみたいと思います。
新崎選手は、高校時代にレスリング部に所属してまして、高校卒業後は俳優を目指して上京し、ジャパンアクションクラブなどを経て、菅原文太さんの付き人になりました。
新崎選手は俳優の傍らプロレスにも関心を持ち始めまして、ユニバーサル・プロレスリングに入団します。
そして1992年11月19日、東洋系覆面レスラー「モンゴリアン勇牙」としてデビューします。
ユニバからみちのくへ
ユニバーサルの大半の所属選手がみちのくプロレスに移ると、それに追随し、1993年6月11日、四国遍路者のギミックを施したキャラクターレスラー「新崎人生」としての再デビューを果たします。
デビュー当初はヒールであり、悪役マネージャーのミスター・トヨタを帯同し、トヨタが対戦相手を罵倒するも本人は試合前・試合後を通じ一言も発しないというスタイルを貫いました。
試合ごとに「○○番札所(大会の開催地)巡礼」と称し、「八十八番札所」にあたるデビュー88試合でザ・グレート・サスケを倒すことが「満願成就」としていました。
八十七番札所
デビュー当初から短時間で若手選手を圧倒する試合を続け、「八十七番札所」に当たる能代大会でサスケと初対戦するが両者KO、決着戦となる1994年4月29日の対ザ・グレート・サスケ戦(大田区体育館)では、「念仏ケブラーダ」(後述)を初公開し、当時の団体エースであるサスケからデビュー1年足らずで勝利を収めました。これを機に一躍トップレスラーの仲間入りを果たします。
白使としてWWFへ
1994年アメリカのプロレス団体WWFにも登場し、白使のリングネームで活躍します。96年にその後一時帰国をいたしまして東京ドームの新日本プロレスの東京ドーム大会でグレートムタ選手との対戦で、後々語り草になっているんですけれども、大流血に追い込まれ、防戦一方に終わってしまったのでした。
試合を振り返って「まだ修行が足りませんでした。もう一度新たに巡礼の旅を続けていきたいと思います」というふうにコメントを残しまして、WWF との契約を解除し、みちのくプロレスに戻るわけですね。
その後、新生 FMW とか全日本プロレスとかにも活躍の場を移していきまして、新生 FMWでは、 ハヤブサ選手と出会いました。
無駄にはならない
新崎選手がアマレスだけでなく、俳優の経験をしてるということは後々にそのアメリカで大いに役に立ったり下と思います。
このように一見関係なさそうな経験でも、やってることは無駄にはならないんだなあというのを、人生選手の半生を振り返って観て思うわけですね。特にWWFはエンターテイメントを中心にした世界ですので、なおかつそのレスリングができるという選手は非常に重宝されたものと思います。
のちのちみちのく勢がWWFで重用されている足がかりになったのも、人生選手の活躍があったからではないかなという風に私は思っております。