私的プロレススーパースター烈伝(92)青柳政司
ベスト16
今回はプロレスへの参戦活動で知られ、数多くの団体を渡り歩いた、青柳政司館長のお話です。
青柳館長は1978年、22歳の時に他流派でありながら極真会館主催の「第10回オープントーナメント全日本空手道選手権大会」に出場され、ベスト16の成績を残しています。
格闘技の祭典
1979年に空手道場「誠心会館」を設立します。
1988年に開催された「格闘技の祭典」からオファーがありトーナメントに参加されます。しかし、惜しくも一回戦で一本負けします。
対大仁田戦で
1989年の「格闘技の祭典」では、大仁田厚選手と異種格闘技戦で対戦し、子ども時代から憧れていたプロレスとの接点が生まれます。
1989年10月6日に行われたFMWの旗揚げ戦における大仁田選手との再戦で館長は正式にプロレスデビューします。
壮絶なライガー戦
1990年6月12日、新日本プロレスに参戦し、獣神サンダー・ライガー選手と異種格闘技戦を戦ったのを期に新日本に定期参戦します。
このライガー戦は生観戦していますが、1R3分で無制限ラウンド。引き分けなしの完全決着戦。関節技も投げ技もOKの何でもありルールでした。
怒号のような大声援
レフェリーストップとなったこの試合は、壮絶な喧嘩マッチの末にライガーさんが勝利しました。
今でも福岡国際センターを包んだ怒号のような大声援は、忘れられません。
平成維震軍へ
この試合は、ライガーさんだけでなく、館長のベストバウトだったと私は思っています。
新日本にそのまま参戦していた館長は、1992年から門下生を率いて越中詩郎選手と抗争を繰り広げ、のちに越中選手と反選手会同盟、のちの平成維震軍を結成します。
NOAHへ
1994年に新格闘プロレスを旗揚げし、エースとして異種格闘技色の強いプロレスを展開しました。
その後、WWFマニアツアーに参戦後、東京プロレスやレッスル夢ファクトリーを渡り歩き、2000年からプロレスリング・ノアに旗揚げ時から参戦します。
打ち上げの席で
青柳館長の現役ラストマッチとなったのは2021年8月15日、FMW-E大阪大会でした。
さて、館長のご生前、私は2014年8月9日に開催されたプロレスリング華☆激の大会後、打ち上げに参加させていただき、館長と越中選手とお話させていただきました。
非常に丁寧な方
そもそも華☆激で試合後、ファン参加の打ち上げをやるのは非常に珍しかったのです。
臨席させていただいた館長は、非常に物腰の柔らかい方で「左目が見えないので、おかしな姿勢になってしまいますが、すいません」といちファンでしかない私にも非常に丁寧に接してくださいました。
WWFマニアツアーの話
また、私が1994年に開催されたWWFマニアツアーの大阪大会で行われた「ロイヤルランブル」に館長が登場した時の話もさせていただきました。
この時リング上で館長は蜘蛛の糸をばーっと広げるんですが、あれは「うまくいかなかった」ということでした。
でも印象に残っていたので、そのことを告げると「ありがとうございます」といっていただきました。
あれを目指そう
館長からバイク事故で、腰の骨を骨折してからの、プロレス復帰までの話を聞かせて頂きましたが、すでに片目が見えず、腰の骨を折っているのに、それでもプロレスのリングに戻ってこようという館長のプロレスへの壮絶な執念と愛には言葉を失いました。
この日のメインイベントでも館長は往年と変わらないファイトを繰り広げ、試合後アステカ選手が「あの二人をこえていかないといけないんだよ。でもメジャーの選手とやると楽しいだろ?俺たちはあれを目指そうよ」と自身の奮起も促していたのが印象的でした。
色紙の話
最後に平成維震軍の色紙のお話をさせていただきました。
これは、かつて阪神淡路大震災で、金本浩二選手の実家が、被災したとき、平成維震軍メンバー全員の寄せ書き色紙に、プラスしてメンバー全員と、握手ができるというセットを、一枚1000円で売っていたのですが、その売り上げの全額を金本選手の実家に届けたことがありました。
宝物の一つ
それに感銘を受けた金本選手が、平成維震軍興行に参戦をしたという交流もありました。
この色紙は今も大事に保管しておりまして、私の宝物の一つになっています。
3ショットも
そのことを館長にお話すると、たいそう喜ばれて、その色紙は大変宝物だから大事にしてくださいね、とおっしゃっていただきました。
イベント終盤にアステカ選手と青柳館長と3ショットを撮っていただきましたが、この写真も私にとっては宝物になりました。
ご冥福を・・・
そして館長とお話しできたこの一期一会の夜も私とっては家宝になりました。
館長本当にありがとうございました。
謹んで青柳館長のご冥福をお祈りいたします。ありがとうございました。