[プロレスブログ] 200%元気になれる!老害プヲタ・プロレス“ザ・モンスター”ハラダの発想の転換のすすめ(46)プロレスは我慢比べなのか?

*プロレスは我慢比べか?

今回はプロレスは果たして我慢比べなのかどうか?というお話です。私が真っ先にイメージするのは最近のプロレスにありがちな「我慢比べ」です。我慢比べはたしかにプロレスの要素の一つではあります。

例えばデスマッチ系の試合も一種の我慢比べになるかとは思いますが、これは個人的にはあまり気になりません。しかし私的に気に入らないのは、普通の試合で、ひたすらチョップのラリーを繰り返す展開や、背中を差し出して相手に蹴らせる展開を延々と繰り返す試合です。

これらを全くやるな、とは言いません。むしろそれだけに絞って試合が組み立てられるなら、私は闘っている選手がポジティブな才能の使い方をしているな、と感心しますね。

たとえばWAR対新日本の対抗戦の中で行われた阿修羅原対長州力のシングルマッチを例にあげましょう。試合前、原さんから「長州、この試合ラリアット一本で勝負しよう」という提案がなされ、両者はラリアットだけで試合をしたことがあります。

これは長州・原両選手共にブレイク以前、スタン・ハンセンから来る日も来る日もウエスタン・ラリアットの餌食になっていたという過去があり、その経験を生かして原選手は「ヒットマンラリアット」を、長州選手は「リキ・ラリアット」を得意技として会得したという背景があってのことです。もちろんWAR対新日の対抗戦時代には、当時の観客にも周知の事実でした。

もちろん私もこの試合にこめられた背景を熟知してましたから、非常に感銘を受けたものです。だからこそ年月を経てもいまだに記憶に刻まれているのです。

* 試合にある「深み」

では、長州対原のような例はともかく、試合中で同じことをしてもポジティブとネガティブに印象が別れてしまうのはなぜなのか?もう少し掘り下げて考察してみましょう。私が考えるに、次の3つがあるかと思われます。

①同じ技を違う打ち方、見せ方で使っているか否か

②我慢大会=自己満足になっていないかどうか、選手が理解できる客観性を持っているか否か

③お客さんの声援に自分がのせられているだけになっていないか否か

①は、少ない技だけで試合を組み立てている往年の名勝負をじっくり見ていくと答えが浮かび上がってきます。映像はありませんが、1974年10月10日、蔵前国技館にて行われたアントニオ猪木対大木金太郎戦では、大木さんの原爆頭突きと猪木さんのバックドロップしか出てこない試合があります。

特筆したいのは大木さんの頭突きは、そのほとんどを違う角度や、違う箇所に決めている点と、原爆頭突きの全てを受け切り、バックドロップ一発で逆転勝ちした猪木さんのタフな受けの姿勢です。頭突きはあなたもご承知の通り、相手にも自分にもダメージを受ける技です。いかに首が丈夫でかつ人並み外れた頭の硬さに自信があったとしても、己が身を削る技であることには違いありません。

にも関わらず大木さんが原爆頭突きを必殺技に選んだのはなぜだったのか?というと・・・

得意技に頭突きを選んだ理由としては、当時朝鮮系は石頭というステレオタイプ的なイメージから力道山が「お前は韓国人だから頭を鍛えなさい」といわれたことに依拠する。(wikipediaより)

とあります。つまり大木さんは同じルーツを持ち、敬愛する師のアドバイスを愚直なまでに守り通していたのです、のちに脳血管疾患などの病気で、長い車いす生活と闘病生活を余儀なくされたほどの後遺症を残しながら、大木さんが終生プロレスを愛し続けたことには深い敬愛を抱かずにはいられません。

試合のほとんどを頭突きに費やした大木さんにとって、バックドロップという首や頭部にダメージをあたえる技を、試合終盤で食らうということは、大変リスキーなわけです。にも関わらず、大木さんはあくまで原爆頭突きにこだわり、猪木さんは大木さんのこだわりを全て受け止めた上でバックドロップを放った、と考えると、猪木対大木戦には非常に「深み」があることがおわかりいただけるのではないでしょうか?

 *我慢比べより知恵比べ

さて、②ですが、これはもう大木さんと猪木さんの例をあげてしまえば、ほかに言いたいことはないのですが、もうひとつ例を出すと、単なる自己満足では猪木対大木のような壮絶な死闘はできないということを今の選手や関係者には胸に刻んでおいてほしいのです。

③に関しては8年前にザ・グレート・カブキさんのお店でカブキさんから直接聞かせられたことです。カブキさんは具体例を出してお話してくださったのですが、ここでは長くなるので、省略します。しかしカブキさんがおっしゃられていたように、「お客さんとの知恵比べを常に意識して、お客さんの想像する2歩先、3歩先の手を出せるかどうかが、一流の選手かどうかの分岐点である」という意味のお話は、その後プロレスの試合を見るにあたって、私の見方を大いに変えてくださったありがたい金言でもあります。

いわゆる「客が呼べる」プロレスラーというのは、もちろん単なる我慢比べをしているだけでは務まりません。それはデスマッチファイタ―もしかりです。

常に客観性をもち、なおかつお客さんとの知恵比べに対して常に先手を打てるポジティブな才能の使い方ができないといけないわけです。

いかに優れた身体能力をもっていようと、我慢比べだけをみせて、知恵比べを観客に仕掛けない選手は、才能を無駄使いしているとしかいいようがありません。それはプロであろうと、ノンプロであろうと二流以下の選手でしかないという事なのです。

 

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