プロレス想い出回想録 猪木について考える事は喜びである⑦強さとプロレス
プロレスにおける「強さ」
アントニオ猪木が亡くなった2022年は、プロレスにおける「強さ」について、プロレスファン、プロレス界に問いかけられた年であったように思う。
「シューティングを超えたものがプロレスだよ」とはジャイアント馬場が、週刊プロレスのインタビューで答えていたフレーズである。
実績と実力からくる自信
「隙があれば、大物食いをしてやろう」と、対戦相手が向かってきた際、シュートでギュッと締め上げることなどは、大看板を背負って全米マットを渡り歩いていた馬場の全盛期なら出来て当然だった。
1960年代のアメリカで、ヒールとしてトップを張った実績と実力からくる自信は揺るぎないものがあった馬場にしてみれば「強さの追求」など「何を今更」という感じだったのだろう。
舐められないための技術
対して、KING OF SPORTSを標榜する新日本には、いわゆる道場破りが引も切らさず、それに対応する「舐められないための技術」が必要だった。
しかし、時代は移り変わり、試合中に物騒な仕掛けをしてくる対戦相手は激減していった。
締め上げる技術は
そして、プロレスの道場破りという逸話もいつしか聞かなくなっていった。
そうなると、万が一の危険に際して、「締め上げる」技術は必要ではなくなる。
近代プロレス
こうした時代の中で、体系化されていない技術はやがて廃れていく。口伝に近いプロレスの技術も然り。
そうして出来上がったのが、格闘技と一線を画す近代プロレスだったわけだ。
ぬかずの刀は
私個人はプロレスに強さは求めてはいないが、ぬかずの刀は持っていて欲しいとは思っている。
自分が平和主義者だとして、隣人まで同じ意見だとは限らない。
そうでない場合は
プロレスは信頼の上に成り立つスポーツエンターテインメントであるからには、できるだけ対戦相手の思想は近い方がいいのだが、そうでない場合はどうするか?
2022年6月12日に開催された「CyberFight Festival」(サイバーファイトフェスティバル)の第八試合における「DDT対NOAH」の対抗戦において、中嶋勝彦の放った顔面への張り手で、当時DDTのKO-Dチャンピオンだった遠藤哲哉が失神KOされるという衝撃の結末があった。
非はどちらにも
私は今までこの試合については触れてこなかった。
プロの仕事としてみるならば、ケガをさせた中嶋にも非があるように思えたし、同時に抜かずの刀を用意していなかった遠藤にも非があるようにとれる。
不幸なすれ違い
しかし、これは「プロレスとは何か?」という、十人十色でいかようにも異なる答えが用意できるジャンルにおいて、不幸なすれ違いであったとも考えられる。
要はこれから中嶋や遠藤が「プロレスとは何か?」という問いに、自分なりの答えを出して、それをリングで見せてくれたらいいのだ。
強さの象徴
ただ、2022年10月頭現在、DDTの「強さの象徴」は、遠藤哲哉ではなく、樋口和貞に代わっている。
サイバーファイトフェスで、同じチームとして、同じリングにいた樋口が、団体の強さを背負う事には意義はない。
遠藤自らが
しかし、やはりこの問題は遠藤が、プロレスの強さに対して、自らの答えをリング上で見せる以外に解決はないと考える。
むしろこの一件で遠藤を強さから遠ざける意図が団体内にあるなら、それは悪手でしかない。
這い上がるドラマ
プロレスファンは、何度叩き潰されても、そこから立ち上がっていくプロレスラーの姿に、勇気をもらい、応援していく。
遠藤哲哉には、どん底から這い上がるドラマを見せてもらいたいし、それこそがプロレスラー・遠藤哲哉の復権に他ならないだろう。
混ぜるな危険
さらに、重ねて不幸なのは、NOAH絡みの試合で、対戦相手が三人リング禍に見舞われた事で、NOAH内にもどこかしら「混ぜるな危険」の空気ができてしまった事である。
中嶋勝彦は、一見すると前と変わらない様子で試合をしているが、彼らが外敵要員として、今後も起用されるかどうかは、正直私にもわからない。
「なんとなく」共有された今
アントニオ猪木が提唱した強さ、ジャイアント馬場が提唱した強さは、信頼のおけない対戦相手への制裁として、必要不可欠なものだった時代を生きた者ならではの考え方だったと思う。
時は移り、プロレスの概念が「なんとなく」共有された今、それは果たして本当に必要ないものになったのだろうか?
各人各様の答え
むしろ、各人各様の答えが用意できる今だからこそ、抜かずの刀は必要なのではないだろうか?
ならば、試合前にリハーサルをし、入念な打ち合わせをしたらいいかもしれないが、それではプロレス特有のスピード感とライブ感も失われてしまう可能性が高い。
さまざまな対応力
プロレスはそれぞれの答え合わせをせずに、異なる思想・主義がぶつかり合う事で、観ている人の数だけ異なる解釈を生み出してきた。
それだけに万が一に備えたさまざまな対応力は、今の時代だからこそ必要ではないか、と私は考える。
全てを内包する懐の深さ
そうした対応力が緊張感を生み、予定調和を限りなく排除していく。
プロレスのダイナミズムはまさにそういうところにあり、強さもうまさも全てを内包する懐の深さが何よりの魅力になっているのだ。
だからこそ、猪木の死によりもう一度「プロレスの強さ」について、思考停止せずに考えていきたいのである。