プロレス想い出回想録 猪木について考える事は喜びである⑤闘魂の語り部たちに想う
苦手意識
「俺は自分のことは言葉でうまく表現できない」と後年猪木は語っている。
あれだけ数々の名言を残していながら、非常に意外なのだが、猪木は自身を言葉で表現することに苦手意識を持っていた。
ブームの到来
前述の猪木コメントに登場する村松友視氏の著書「私、プロレスの味方です」が出たのは、1980年。
ちょうどこれから新日本ブームの到来を告げる80年代が開幕した年に、猪木のプロレスを「過激なプロレス」と定義づけた村松氏はおそらく「自分の中のアントニオ猪木」を、最初期に形にした一人ではないかと思う。
へそ曲がり
実は、ちょっとへそ曲がりな私は、今に至るまで「私、プロレスの味方です」は読んだことがない。
そもそも先ほどもいったように、80年代はタイガーマスクブームをはじめ、新日本プロレスが勢いを増していく時代である。
プロレスに市民権を
金曜夜8時のワールドプロレスリングは、裏番組に「太陽にほえろ!」「3年B組金八先生」を向こうに回して、視聴率20%を常時叩き出すお化け番組だったのだ。
あの当時の熱狂をリアルタイムで体感している人間としては、「プロレスに市民権を!」と言われても今ひとつピンとこなかったのだ。
幻想の語り部
そして80年代には、村松友視氏と共に猪木新日本の幻想を膨らませたもう一人の語り部がいた。いうまでもなく古館伊知郎氏のことである。
リング上の「アントニオ猪木」が放つ光が、表現者たちが持つ多くの才能をも刺激したのが80年代だった。
ピークアウト
こうした才能者たちが語り継いだことで「アントニオ猪木」はファン、世間に鮮烈な印象を与えるカリスマとなったのは間違いない。
ただ、実際のところ、レスラー・アントニオ猪木は1983年 第1回IWGP決勝での「アックスボンバー失神事件」の頃には既にピークアウトしていた。
落日の闘魂
1983年6月2日、蔵前国技館でのIWGP優勝戦で、猪木はハルク・ホーガンに舌出し失神KOされ、念願であるはずの「世界一」にはなれなかった。
その3年後、1986年に行われた「前田日明対ドン・中矢・ニールセン」と同日に行われた、対レオン・スピンクスとの異種格闘技戦では、お粗末な試合内容から、前田絶賛の声が圧倒し、「新格闘王」として台頭していく。
地に落ちた
この時分からリング内では、海賊亡霊、たけしプロレス軍団、マシーン軍団の登場があり、リングを降りればアントンハイセルの問題や、所属選手の大量離脱にクーデターといったスキャンダルに見舞われ、ストロングスタイルも地に落ちていくのである。
その猪木チルドレンの一人でもあった古館氏は、1987年3月に実況を勇退し、絶頂を極めたワールドプロレスリングも、金曜夜8時を追われることとなる。
延命されていた
実際は、80年代には既にピークアウトした猪木が村松氏や、I編集長、古館氏といった語り部たちによって延命されていたというのが正しいかもしれない。
このあたりは「闘魂と王道」という本にもくわしく書かれている。
虚像でも記憶に
80年代のアントニオ猪木は、共同幻想によって膨らみ切った虚像と、経営者としても、レスラーとしてもピークアウトし、経済的な負債に、身体的な病に日夜苛まれた実像が激しく乖離していた印象がある。
しかし、そんな中でも人々の記憶に残るのが、猪木の猪木たる所以である。
背中が泣いている
むしろ、全盛期より落日期の方が印象深いというファンも多いのかもしれない。
闘魂という二文字を背負った猪木の背中は、あの時にもしかしたら人知れず涙を流していたのかも、とも想像してみる。
世間が求める虚像
それでも最後の最後まで、世間が求める虚像であり続けたアントニオ猪木という存在は、やはりただものではない。
それだけは間違いない。