プロレス想い出回想録 猪木について考えることは喜びである②極私的不在証明について
多くの方が既に
私は今まで、意図して力道山やBI砲について記述はしてこなかった。
いわゆる「推していたプロレスラー」は、彼らの対角線上にいたし、スーパースターは、私が語らずとも多くの方が既に語り尽くしている。
プロレスそのもの
いつしか私の興味は、団体や選手を飛び越えてプロレスそのものになっていった。
プロレスについて考えることは、私にとって最上級の喜びになっていった。
私の行動は奇異
「プロレス」という定義づけが難しく、他に比類なきジャンルに対して、継続的な熱量を注ぐ事は、私の中では当たり前になっていた。
しかし、実在している対象を推す人々からすると、私の行動は非常に奇異にうつるらしく、「誰を応援しているのか?」と問われた事も一度や二度ではない。
プロレスを推す原動力
だが、その度に「プロレス推し」と答えても、反応はイマイチだったわけである。
ただ、正直今までは「プロレスを推す原動力」について、まともに向き合ってはこなかった。
その原動力は
実際、推していた選手はほぼ死去したか、引退しているし、好きな団体も変節し、時代と共に私の嗜好も変化していった。
だからこその「プロレス推し」だったわけだが、その原動力については、なぜか今まで深く追求してこなかったのだ。
私の中にも
しかし、アントニオ猪木という稀代の才能の訃報に際して、気づいたことがある。
それは私の中にも猪木イズムが根付いていたことである。
トリガーとなった死
アントニオ猪木さんの訃報に際して、プロの記者でさえ、自分語りしている記事をたくさん書いていた。
それはおそらく「猪木の死」がトリガーとなり、各人の中に眠っていた猪木イズムが、目を覚ました結果、突き動かされたのではないか、と私は推察した。
対戦相手を通じて
それは私の中にもしっかりと生き続けていたのだ。
私は推しである猪木の対戦相手を通じて、猪木イズムを注入され、それを原動力として、プロレスを推していたのかもしれない。
闘魂の魔性に心を
それも私が気づかないレベルでの話である。いつしか、私も闘魂の魔性に心を奪われていたのだ。
そして、私の中の猪木イズムが覚醒した事で、プロレスについて、猪木について考える事は、喜びになっていたのだと気付かされたのである。
不在証明
昨年、抗がん剤治療中に読み返した本の中に、週刊ファイト紙上で活字プロレスを展開した、I編集長の「不在証明」という作品がある。
この本はいわゆる「猪木本」なのだが、アントニオ猪木本人にインタビューもしていなければ、ノンフィクションでもない。
猪木について考えることは喜び
「不在証明」は、I編集長の中のアントニオ猪木が、時に会話形式で、時に小説化して、さまざまな形で表現されている本なのだ。
まさにI編集長の「猪木について考えることは喜び」という想いが爆発した一冊であり、I編集長の中のアントニオ猪木が余すところなく表現された一冊なのだ。
そして、この文章もおこがましいようだが、私にとっての「不在証明」になっているのかもしれない。
病床と繋がっている
もちろん、偉大な先人とは比べものにならない事は承知の上で、それでも突き動かされるように、私は猪木を語りたくなった。
その原点は間違いなく「不在証明」を読んだ病床と繋がっていると私は思っている。