プロレス想い出回想録・想い出に残る博多のプロレス④切なすぎたライバル闘争・後編
パイオニア活動休止
藤波戦敗退、新日本との業務提携終了をもって、剛竜馬率いるパイオニア戦志は活動休止してしまいました。
決定的だったのは、ジュニア時代にみせていたしなやかさは剛の肉体からは完全に失われており、フロントスープレックスもぎくしゃくした動きになっています。
終始かみ合わなかった試合
博多スターレーンでの試合でも山本小鉄さんに指摘されていた通り、剛の体の硬さも災いして、試合は終始かみ合いませんでした。
とにかく冷酷な氷のドラゴンをみたのは、後にも先にもこの試合だけでしょう。
健闘すら称えない
試合後、健闘を称えあうどころか、剛の方すらみようともせずに藤波さんはリングを後にします。
後年FMWを旗揚げした大仁田も新日本との抗争に挑みましたが、剛とは何から何まで違っていました。
妙に記憶には残っている
膝がいうことをきかず、練習も満足にできないのは大仁田も同じ。
剛とは条件もそれほど変わりはありませんでした。
でも剛竜馬は何から何まで不器用だったけど、妙に記憶には残っているんですよね。
不器用すぎた
過去の栄光を捨て去った大仁田はビジネスマンとしては大変優秀だったけど、過去の栄光にすがって、新日復帰、対藤波戦だけを目標にやってきた剛竜馬はいかんせん人としても、プロレスラーとしても不器用すぎました。
剛の唯一の栄光は東京ドームの第一試合で6万人のショアをできたことかな。それだけがせめてもの救いだったような気がします。
もう少しなんとかならなかったか
晩年の剛を見ていると、それまでの不義理の積み重ねがあったとはいえ、スターレーンの一期一会の試合はもう少しなんとかならなかったのかとも思うのです。
でも藤波さんにしてみたら、1989年6月22日、ビッグバン・ベイダーとのシングルマッチで腰を負傷し、椎間板ヘルニアで1年3か月間に及ぶ長期欠場となりました。
不幸なすれ違い
そのあと、1990年9月30日の越中詩郎とのエキシビション・マッチで復帰戦を飾り、プロレス界での部屋別制度を提唱、「ドラゴンボンバーズ」を結成します。
この年末には宿敵長州力とのIWGP戦を控えたスケジュールの中で、正直剛竜馬だけをみている余裕はなかったと思われます。
そういう意味では不幸なすれ違いだったとも言えるわけですね。
心の中の棘が痛む
ドラゴンだってまさかこの試合が一期一会になるとは想像もしてなかったでしょう。
1990年11月28日のメインイベントは本当に見ていて切ないものがありました。
そして剛対藤波のこの試合は未だに見返すたびに、私の中の心の中のトゲが痛むような気がしてならないのです。