怒り、苦しみ、破壊し、創造する!世界プロレス式コミュニケーションガイド研究所所長の体験談ブログ(133) 自分の問題と向き合うための10の闘い(23) 働かざるもの食うべからず③
「私は人間が大キライです」
これを私が10代の時に公表した際、大変な目にあいました。たまたま雑誌に私の主張が掲載されてしまったのですが、掲載した雑誌側も読者側も一様に私を非難してきました。私の味方は誰もいませんでした。今で言う「炎上」というやつです。
ちなみにそれは小中学生時代にいじめを受けていた時も同じで、周りは常に傍観者でしかありませんでした。
私は泣きながら持論を引っ込め、謝罪文を書きました。それが掲載され騒動は終結しました。しかし、私の中の「人間ギライ」という信念は表にあらわれない分、潜在化し、強化されていきました。
表向きは人間が大好き、でも本当は人間なんか大キライ。そんなダブルスタンダードを自分に課しながら生きてきました。仮にあなたが私に危害を加える気がないとしましょう。しかし、私はそんなあなたを信用できません。
なぜなら見ず知らずの人間たちが異論である私の意見を「間違い」だと断じて刃をむけてきた体験が私にはあるからです。あなたが「今は」危害を加える気がなくても、それが永遠に続くという保証はどこにもありません。
それはあなたが、どんなに表向き良い顔をしていたとしても、どこかに私には信じきれない部分を抱えています。芯から他人と打ち解けられない以上、他人を好きになることはまずありません。
ですから、そんな人間たちのために私が働くなんてことは虫酸が走るくらい気持ち悪いことなんです。
人は必ずうらぎります。裏切る気はないかもしれませんが、悪意のない刃物を向けてくるなら、私は払いのけねばなりません。むしろ悪意があるほうがありがたいのです。
しかし、過去と他人は変わりません。過去と他人を変えることに固執し過ぎていた私は、随分無駄な努力をしてきました。常に身を固くして、自分を守りながら生きていくことは非常にしんどいことです。
ですから、他人を信用しないという信念はそのままにして、その信念を緩めて楽に生きられる方向に舵を切ったわけです。
すると、今までは「他人はあてにならない。やるなら自分が全部やらなければ」という感覚から、「他人はあてにはならないけど、自分が全部やる必要ないよね」という感覚に変わっていきました。
だから、信念は変わらないまま、他人に任せられるところは任せられられているので、私的には随分楽になりました。
それでも私は人を好きにはなれてないので、人を好きになる、恋愛する人の心理は理解し難いし、しようとも思いません。そもそもきもち悪いので近寄りたくもありません。モテるモテないで自分の価値を決めようとしている人の話には興味すらありません。
それ故に、「働かないカウンセラー」として働かないでいると、そうした恋愛系の相談はまずこなくなります。私的には大変ありがたい話です。たまに話をあわせているときもありますが、内心では「誰もが恋愛至上主義者だと思うなよ」と舌を出しています。
多分、恋愛や結婚に人生の価値を見出しているあなたには理解し難いでしょう。でも私はそれでいいと思います。そのかわりわたしのこともそっとしておいてくれるならそれだけで十分なのですから。