怒り、苦しみ、破壊し、創造する!世界プロレス式コミュニケーションガイド研究所所長の体験談ブログ(115) 自分の問題と向き合うための10の闘い(5) シェアに対する不快感⑤
私が仕事場としてお借りしている秘密基地では、知見と体験のシェアリングというのが理念になっています。でも私がシェアしたい知見と体験と、一般的に求められてるものとには大きなずれがあります。今回はその「ずれ」のお話です。
カウンセラーという仕事はそもそも人の話を聴く仕事です。しかしカウンセラーも人間ですから、たまには話したい時だってあるのです。そんな時に仕事の話をしたいか?といえば、答えはNOです。そしてむしろ私は語りたい側の人間なんだなということに最近気が付いてきました。
自分の知見と体験はカウンセリングにとどまりません。生き甲斐として血道をあげているプロレスやアニメなどたくさん話したいことがあるのです。そのついでに心理っぽいことを話すのは全然OKなんですが、心理やカウンセリングのこと「だけ」話すのは自分の中で相当違和感があるのです。自分の中ではプロレスやアニメや映画を語らずして心理のことなど語れないくらい、地続きで切っても切れない関係にあるものなのですが、往々にして私の生きがいは「無駄話」にカテゴライズされがちです。
しかし、心理の話だけしているとどうしても自分に煮詰まった感があるのです.それは話をしていて自分でもよくわかりますし、何より自分が自由になった感じがしないのです。これでは真に自分の知見と体験はシェアリングできないなと思うようになって、そこから、自分の中で趣味や生きがいと仕事を区切るのをやめてみたわけです。
まあ、これは自分の中で区切らないようにしているだけなんで、のべつ幕なしにいろんなところで好き勝手いっているわけではありません。が、少なくとも自分の中で、「地続きである」という認識を強く持ったことで、私の中にあった「仕事以外は全て非生産的な遊びにすぎない」という思い込みを緩めることができたわけです。この気づきは結構私の中では重要な意味をもちました。
では、この「仕事以外は全て非生産的な遊びにすぎない」という思い込みがどこからきているのでしょうか?私がすぐに思いついたのは母親の影響でした。母というのは自分が非生産的だと思うことは全て遊び=悪ととらえる人なんで、私がどれだけスキルアップしようが何しようが、決して私のやることを認めようとはしてくれない人です。
しかし現実は遊びの中にこそクリエイティブなものがあるという考え方が、昨今の日本でも一般的になりつつあります。そう考えると、遊びを削るということはクリエィティブなところからどんどん遠ざかっていくことを意味するのではないかなと私は思います。結局それでいい仕事ができなければ、稼ぎにもつながりません。つまり一見すると無駄なことをやっているようですべてはつながっていて意味があると考えたほうがいいと私は思うのです。
思い込みにとらわれて目先の視界を自分で曇らせる母のような人間に、私はなりたくありませんからね。