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怒り、苦しみ、破壊し、創造する!世界プロレス式コミュニケーションガイド研究所所長の体験談ブログ(38)私が博愛主義をキライな10の理由(8)

2016/10/28

私はこどもの頃から少し変わった嗜好のある人間でした。誰しもが主役になりたがるヒーローごっこでは率先して怪獣役や悪役を演じ、皆が嫌う脇役に自分の居場所を見出してニヤニヤしていました。もちろん本当のところをいうなら自分もスポットライトに当たりたい、目立ちたい、尊敬されたい、という願望はありました。でもヒーローになるのはなんか違う、主役になるのは自分じゃないという感覚もずっと持ち続けてきました。

ただ、日陰には日陰のよさがあり、私はいつしか日陰の魅力、脇役の魅力にハマってゆきました。そこは私だけの居場所でした。そこにいるためには特別な努力はいりません。主役のように奪い合うこともなく、ひたすら縁の下を支えていれば良かったのです。

そう考えると、馬鹿馬鹿しい似非博愛主義をなぜ長年に渡り、私は続けてきたのでしょう。なぜ、人の反応を極度に怖れ、相手に媚びへつらう人生を選択し続けてきたのでしょうか?

つくづく本当に自分はバカだなあ、と思います。そもそも私は積極的に人との交わりすら求めていないのです。ですから不特定多数に好かれる必然性がどこにもないのです。にも関わらず、人の役に立てない自分が許せなくて、長年ダメ出しし続けてきたのです。人の役に立つためには人に必要とされなければならないし、万人に好かれないとダメだという思い込みが自分をずっと苦しめてきたのです。

やはり思い込みというやつは、とことん自分の目を曇らせますね。そして悪い意味で自分に厳しすぎるということが、必ずしもよいことではないと思い知るわけです。何事もほどほどが一番なんですけどね。

しかし、一旦思い込みという事実を知ると今度は何もかもが疑わしく思えてならなくなります。本当は自分も主役になりたいのではないか?スポットライトを浴びて賞賛されたいのではないか?と。でも、いくつかの機会を体験してやはり明るい場所の居心地の悪さに気づくわけです。そしてWin-Winになる点すら見出す努力もなしに、勝手にNo Deal(取り引きしない)にしてしまうのが私の心のくせでした。

確かに日の当たる場所より日陰で縁の下を支える役は私にはしっくりきます。しかしそんな人間でもたまにはスポットライトの下に出る場面もあるわけです。そんな時すら遠慮して日陰に籠ることが果たしてWin-Winなのだろうか?最近はそんなことをよく考えています。

普段は日陰者でもいいけれど、たまには日向にいてもいい感じでいられたら、どうでしょうか。以前なら「そんな場所は自分にふさわしくない」と固辞したでしょう。でも、自分の人生までずっと日陰にすることはありません。四六時中日向にいるのはしんどいでしょう。オンオフがはっきりせず、24時間365日の全てがパブリックな役割を強いられるとしたら、正直たまらないと思います。でも、たまになら日向にいてもいいかな、と自分を許せるようになれたら、今よりはまだ楽になれそうな、そんな気がしています。

似非博愛主義の八方美人というのはつくづく自分を貶めるだけだな、と思います。理念としての博愛主義は確かに立派なものですが、その通りに生きていかねばならないとしたらかなりハードルは高くなります。それでは息苦しさにしか繋がりません。本当に自分の中でいかにこの八方美人が障害になっていたかをこの最近思い知りましたから、このタイミングで自分の問題解決に取り組めたのは幸運だとしか言いようがありません。

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