【実録】【マイストーリー】第四章・【実録】父の脳出血、母の認知症、自分のがん…次々と襲いくる試練
ここまでの流れ
私は2021年に父が脳出血で倒れてから、介護と闘病の地獄に陥りました。母は認知症で徘徊し、自分は悪性リンパ腫で入院しました。友人の突然死や自然災害にも見舞われ、絶望の淵に立たされました。しかし、私はあきらめずに生き抜きました。この記事では、私がどのように介護と闘病の地獄から抜け出したかを実録としてお伝えします。
介護地獄の始まり
私は北九州に引っ越してからは週に一回、実家に帰って数日様子をみて、また北九州に帰るという生活をしていました。離れて見た感じ、両親はそれほど変化もなく穏やかに暮らしていたのですが、異変はほどなく訪れます。
やっと自分の体調が落ち着けると思って北九州に戻ると、今度はコロナ渦がスタートしてしまい、県をまたいでの移動は制限されたため、両親がデイサービスにいっている間に、実家に戻って用事をすませて帰るという生活を約半年続けていました。
やがて、ケアマネージャーと下関市の社会福祉協議会から「このまま北九州にいてもらっては困る」ということで、強制的に下関に戻ることになりました。すでにコロナ渦によって独立開業の話は消し飛んでいましたし、このあたりが潮時だったのでしょう。
しかし、今更実家には戻りたくない私はわがままをいって、同じ下関市内に別宅を借りて、ひとり暮らしは継続することになりました。
父の入院と母の認知症
ところが、引っ越してきて3か月後、今度は父が脳出血で倒れてしまいます。たまたま前日に、私は実家に戻っており元気そうな顔をみていたのですが、その翌朝父が起き上がれずに救急車で運ばれることになったのです。
病院で診断の結果、脳出血で半身不随という事実を突きつけられた私は「もうダメだ」という覚悟を持ちました。過去に一度脳梗塞をやっていますからね。
そこから1年前とは逆に、今度は実家の母の面倒をみつつ、病院の父の世話もすると言うダブルワークにより、私はまたほぼ自室には戻れない生活が始まったのです。
父がいなくなり、食事を作る必要がなくなった母はこの頃から家事を全くしなくなり、ソファーに寝転がってテレビだけ見るという生活になっていきました。これでは、話にならないのでケアマネさんと相談し、父にあてがわれていたデイサービスへ行く回数を母に全て振り当てることになりました。
これで家にずっといるよりはマシだと思っていたのですが、それは最初のうちだけでした。
自分も病気になってしまった驚愕の事実
入院中にさらにショックな出来事がありました。私はプロレス観戦を通じて長年親しかった友人がいました。彼は毎日ラーメンを食べ歩いてSNSに投稿するのが趣味でした。私は彼の投稿を楽しみにしていましたが、ある日突然更新されなくなりました。
その後、別の友人から連絡があり、彼は自室で突然死していたと知らされました。葬儀もすでに終わっていて、私は彼に別れを告げることもできませんでした。
彼はプロレスだけでなく、貴重なレコードや音源もたくさん持っていました。私は一度彼の自宅に泊めてもらったときに、彼のコレクションを見せてもらったことがあります。彼の死で、それらのレアなものも散逸してしまったのでしょう。それを考えると、とても悲しくなりました。
彼の死で、私は自分の死を強く意識するようになりました。私は父と違って一線を超えずに助かったのですが、友人は超えられなかったのです。私と友人とは本当に紙一重だったのだと思いました。そして、いつか自分にも来るであろう死の瞬間を意識するようになりました。
クリスマスケーキも味わえない入院生活から始まった介護と闘病の日々
私は2022年のクリスマス期間中に抗がん剤治療のために入院することになりました。全6回のスケジュールで3回目の治療入院でした。そのときの病院食で忘れられないことがあります。それは、クリスマスイブに食べたケーキです。
味覚障害でパサパサしたケーキになってしまった 抗がん剤治療は入院した翌日から始まりましたが、副反応の味覚障害が出てきたのがちょうどクリスマスイブでした。その日は病院食にもケーキがついてきて、それはとても嬉しかったのですが、全く味がしないケーキはパサパサしたスポンジみたいなものを口に入れている感じでした。
私にとっては、無味無臭のクリスマスケーキになってしまったのです。しかも同室の3人が全員退院してしまったため、4人部屋に1人残された私は、ビルに吹き付ける冷たい風の音を一晩中聞きながら、年末を過ごすという寂しい思い出になりました。
台風や雷など自然災害にも見舞われる
入院中の思い出で忘れられないことは、もう一つあります。それは、自然災害に何度も遭遇したことです。
他東から上ってきた台風が、直角に西へ曲がり、そのまま山口県に上陸したことや、めったに起きない自身のアラートが病院中に鳴り響いていたこと。さらには激しい雨の日、近くに雷が落ちたことなど、普段体験しないような災害に見舞われました。
私は窓から外の様子を見て、自分の命が危ないのではないかと不安になりました。しかし、病院のスタッフは冷静に対応してくれて、私は何とか安心できました。
母の徘徊事件と成年後見人制度の問題
入院していても、介護の問題はなくなったわけではありません。
私が入院していた後半くらいから母が1人で徘徊して、救急隊員に救助されるという事件がありました。私の携帯に連絡が入るのですが、私は入院中でどうすることもできませんでした。
この頃から、退院してもまだ問題は山積みだという嫌な予感しかしていませんでした。
案の定、6ヶ月の抗がん剤治療を終えた後も、試練は続きました。
母は徘徊する割には歩行も困難になっており、ついにはトイレに這って行かなければならなくなるほど足腰が弱っていました。
このときはケアマネさんに相談してデイサービスで足腰の強化を中心にした運動をさせていましたが、家に戻ればゴロゴロテレビの前から動かない生活でしたから、トイレに行くのも這っていくということは変わりませんでした。
2023年に入ってからは、月に1回救急車を呼んで母を運び込むという事態になってきました。
当初はリハビリのため別な病院に入院させるはずだったのですが、母が肺出血からの膠原病が疑われるということで別な病院に入院することになりました。
しかし、ここは認知病棟がなく治療のため入院していたはずの母は、4日ほどで強制退院させられてしまいました。
困り果てた私はケアマネさんともいろいろ相談しましたが、ネックになるのが膠原病治療で認知病棟のある病院では呼吸器外科がないため通院のための外出がネックになってしまうのではないかということで対応が後手後手に回ってしまいました。
加えて2022年の10月頃から突如浮かび上がった父の財産を管理する成年後見人制度の問題も私の頭を抱えさせる問題の一つになっていました。
この両方をこなしつつ自分の体の治療もしなければいけません。しかし働きに出なければ治療するお金もないというギリギリの生活を強いられることになりました。(最終章に続く)