【マイストーリー】第一章・死にたいと思っていた私がプロレスに救われた話

死にたいと思っていた私がプロレスに救われた話

【マイストーリー】第二章・【衝撃】寝たきりから心理カウンセラーになった男の物語
40歳で寝たきりになり、新薬で一時的に回復した男性が、心理カウンセラーの養成学校に通って自分と向き合うことを学びました。彼がどのようにして人生を変えたか、その過程で得た気づきや学びを紹介します

いじめられっ子だった私が抱えていた死にたい感覚

私、こう見えて七歳くらいからずっと死にたいと思ってきました。二歳くらいの時から「長男だから」「お兄ちゃんなんだから」と、しっかりすることばかりを求められ、自分のしたいことは制限され、新しく上がった小学校にはなじめず、ずっと図書館にこもっては即身仏になる本ばかり読んでいました。どうせ自分はいらない人間なんだ、という感覚はすでにこのころから生まれていました。

そののち、小学4年生くらいからいじめにあうようになってくると毎日が憂鬱でした。もしあなたがいじめられたとしたら、どうするでしょうか?先生に訴えるでしょうか?それとも親に訴えていくでしょうか?あるいはいじめっ子に直接向かっていくことでしょうか?

私はこのどれでもないひとつの決断をしました。それは「生きていじめていたやつらを見返してやる」というものでした。これだけですと結構前向きな動機のような感じがしますが、事実はそうではありません。私という存在が疎ましいなら、私が生きていること自体が彼らにとってのいやがらせになる・・・と当時は本気でそう思っていました。

これがストレートに生きる動機になったのなら、まだよかったのですが、この時点では、七歳のころから持ち続けていた死にたい感覚を解決したわけでもありません。まわりに信頼できる人間は誰もいませんでしたから、死にたい感覚も生きようとする動機もひたすら自分の中で念じていたにすぎません。

プロレスとの出会いで目覚めた怒り

それでも生き続けてしまった私の中では、死にたいという感覚と、生きて見返してやる(生きたいではない)という感覚というまったく相反する、矛盾したものを抱えたまま成長していくことになってしまいました。しかも、それが私にとっては「当たり前」の感覚になっていました。

自分と向き合おうとしなかったばかりに、その矛盾にすら気づかず、息苦しさばかりを抱え込んでいくばかりでした。そして、その原因が何なのかさえ自分自身わからずにいたのです。

この死にたい時代に偶然にも私はプロレスを見始めます。と言ってもそれは能動的な動機ではなく、祖母が好んで見ていたせいもあります。当時はプロレスだけでなく、ボクシング、キックボクシングなどが毎週ゴールデンタイムで放送されていた時代でした。

私は一人のレスラーにくぎ付けになります。それがインドの狂虎・タイガー・ジェット・シンでした。当時の私にとって手段を選ばず猪木さんを襲い続けるシンはヒーローでした。忘れもしない「新宿伊勢丹事件」は、いじめっ子だった私にとっては「福音」ですらありました。そこから私はところかまわずいじめっ子を急襲していきました。もちろん噛みつき・目つぶし、なんでもありです。当然逆襲にもあるのですが、自分の中に眠っていた何かが目覚めた瞬間でした。

しかし子どもの気持ちは移り気なもので、当初夢中になってみていたものの、いつしかプロレスから離れていきます。

アニメ感想文で炎上した私の苦悩

さて、19歳の時には自分でも忘れられない出来事がありました。とあるアニメ月刊誌に私が書いたアニメの感想が載りました。それ自体はとてもいいことだと思われるかもしれません。しかし、その内容は人間否定ととられかねない内容でした。私の文章に対しては、編集部、読者、コーナー担当者も総出で「思い上がりだ」と一斉に非難を浴びせてきました。

もちろん私に今でいうところの「炎上」させる意図はなく、単に感想を述べたにすぎません。ですから、この思いもよらぬ反応に私はすっかりビビりあがり、慌てて謝罪文を書いて投稿しました。

ただ、30数年前はまだネットもなく、月刊誌なので、私の謝罪文が載るまでは数か月を要し、その間ずっと私は「人間否定論者」として活字に責め続けられたのです。この間、駅のホームに立つと本当に線路に吸い込まれそうな感覚になったことをよく思い出します。この出来事がきっかけになって20代の最初には人間恐怖症にもなっていました。

こんな時代にプロレスと再び再会します。きっかけをくれたのはまたしても祖母でした。ここから現在まで私はプロレスファンのままでいるのですから、今振り返るに節目節目で祖母がかかわってくれたことが、私の人生を大きく左右していたのです。これには感謝しかないですね。

営業職を選んだが失敗した私の挫折

「このままではいけない」と自分に負荷をかけて、あえて恐怖症克服のために、営業職を選んで就職しました。しかし人間恐怖を抱えたまま勤まるほど営業というのは甘くありません。実際入社して同期が次々成果を出していく中で私だけが成績をあげることができずに苦悩していました。

ようやく入社から半年近くたってやっと成果を出せましたが、そこから八年半続けられたのは、我ながらよくやったよなとしか思えません。

しかし、成績の上がらない私は、会社から追い立てられるように退職を余儀なくされました。この時、自分には「続ける」才能があると思い知りました。もしかすると、あなたにも、好きなことなら時間を忘れて没頭された体験がおありになるかもしれません。

好きなことなら、まだわかるでしょうけど、私の場合、自分が望まないこと、自分がイヤなことでも続けられたのです。それが自分にとって「仕事」だったわけですね。この傾向は転職してからむしろ強化されてしまいました。

営業職を辞めた当時はまだバブルの残り香が漂う時代でもありました。今でなら「リーマンショック」や「就職氷河期」という理由があって、無職になることはそれほど珍しくありません。しかし20数年前は自己都合で退職する人間など社会不適合者であるという認識が、ハローワーク側にすらあった時代です。ましてや自己肯定感が低くなっている私は、自分を更に激しく責めていました。(第二章に続く)

【マイストーリー】第二章・【衝撃】寝たきりから心理カウンセラーになった男の物語
40歳で寝たきりになり、新薬で一時的に回復した男性が、心理カウンセラーの養成学校に通って自分と向き合うことを学びました。彼がどのようにして人生を変えたか、その過程で得た気づきや学びを紹介します
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