プロレス的発想の転換のすすめ(101) 闘いを彩る歓声の作法とは
声援とプロレス
今回は、声援とプロレスについてのお話です。
コロナ禍を経て、現在は再び以前のように声援が解禁されています。
しかし、中にはのべつ幕なしに声を出し続けたり、やや的外れなヤジを飛ばしたりする観客がいて、時折問題になっています。
声援は闘いの調味料
プロレスにおける声援は、単なる応援以上の意味を持ちます。
リング上の選手が繰り出す技に対し、観客が驚嘆し、叫び、名前を呼ぶ。
この相互作用こそが、プロレスという「闘い」を完成させる最後のピースなのです。
ヤジと声援の境界線
しかし、自由な発声が許されているからといって、何を言ってもいいわけではありません。
かつての会場には「名人」と呼ばれるような、絶妙なタイミングで会場を笑わせたり、闘いを盛り上げたりするファンがいました。
一方で、選手の集中を削ぐような執拗な誹謗中傷や、試合の流れを無視した自己満足な叫びは、周囲の観客の熱量を冷めさせてしまいます。
観戦マナーと騒音問題
土地柄というのもあるのでしょうが、自分の憂さ晴らしに大声を出しまくり、周囲が眉をひそめるような歓声は、正直なところ騒音でしかありません。
ところが先日も、そのようなお客さんが来ていました。生観戦をしていて、だいいぶん興をそがれてしまったのは確かです。やはりヤジも声援も、タイミングと適切な声量で、効果的な形で「闘い」の1ピースになってほしいなと思っています。
燃える闘魂が愛した熱
かつてアントニオ猪木選手は、観客との殺伐とした緊張感すらもエネルギーに変えていました。
1987年の「巌流島の決闘」のように、無観客に近い状況での闘いもありましたが、やはり猪木選手が最も輝いたのは、大観衆の怒号と歓喜が渦巻く空間でした。
観客の「声」が、選手の限界を超えさせるのです。
天龍選手の魂を呼ぶ声
また、天龍源一郎選手のような無骨なレスラーの試合では、ファンの悲鳴に近い声援が「闘い」の激しさを際立たせました。
痛みに耐え、立ち上がる姿に呼応するファンの叫び。
それはもはや、会場全体が一つの生き物になったかのような一体感を生み出します。
場の空気を読む大切さ
現代のプロレス観戦において求められるのは、いわば「空気感の共有」です。
静まり返るべき場面では固唾を呑んで見守り、ここぞという場面で爆発的な声を上げる。
この呼吸が合うことで、リング上の「闘い」は伝説へと昇華されます。
選手を鼓舞する真の声
選手は耳で聞くだけでなく、肌で会場の空気を感じ取っています。
ある選手は「心からの声援は、技を食らった時のダメージを和らげる麻薬のようなものだ」と語りました。
的外れなヤジではなく、選手と同じ歩幅で「闘い」を歩む声こそが、最高のギフトなのです。
プロレスは大衆娯楽
鈴木みのる選手が提唱する「プロレスは大衆娯楽である」という思想は、単に「楽しければいい」という薄っぺらな意味ではありません。
パンクラスで「真剣勝負」の極致を突き詰めた彼が、再びプロレスのリングに戻って辿り着いた、極めてシビアでプロフェッショナルな「観客論」と「プロ意識」の裏返しです。
鈴木選手にとってのプロレスは、観客が日常のストレスを忘れ、腹の底から声を出し、明日への活力を得るための場所です。
世界中で売れる最高級の商品
彼は自らを「プロレス王」と称すると同時に、自分自身を「世界中で売れる最高級の商品」とも捉えています。
鈴木選手がリング上で見せる「不敵な笑み」は、相手を小馬鹿にしているだけでなく、会場の熱狂をコントロールしている確信犯的な「娯楽の提供者」としての顔なのかもしれません。
人生の縮図
また、ブルーザー・ブロディ選手の急逝時、会場を埋め尽くした沈黙と、その後に湧き上がった「ブロディ・コール」は、死という絶対的な悲劇すらもファンが共有し、物語として昇華しようとする心理の現れでした。
笑い、怒り、涙する。
社会の理不尽や鬱屈をリングに投影し、声の限りに叫ぶことで、人々は明日への活力を得ます。
プロレスが時代を超えて愛されるのは、それが単なるスポーツの枠を超え、私たちの心を解放する「人生の縮図」だからに他なりません。
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