ミル・マスカラスの伝説 | 日本初登場から76歳での復活まで
ミル・マスカラスの空中殺法とカラフルなマスクの魅力
今回は仮面貴族・ミル・マスカラス選手のお話です。
ミル・マスカラス選手は、世界的に活躍したメキシカンの伝説的なプロレスラーです。
彼の名前は英語で「千のマスク」を意味し、彼の空中戦を主体としたプロレススタイルとカラフルなマスクで知られています。
マスカラス選手は複数のプロレス殿堂入りを果たしており、史上最も偉大なメキシカンレスラーの一人とみなされています。
マスカラス選手は、1942年7月15日にメキシコのサン・ルイス・ポトシで生まれました。
彼は1965年にプロレスのキャリアを開始し、アクロバティックな動きとユニークなマスクですぐに名声を博しました。
羽やスパンコールなどの装飾が施された衣装や、複雑なデザインと色のマスクを着用することで知られていたマスカラス選手は、メキシコや日本、アメリカなどで活躍しました。
ミル・マスカラスが日本で愛された理由とは?
マスカラス選手は70年代から80年代にかけて日本で大スターとなり、「千の仮面の男」として知られていました。
マスカラス選手は、日本プロレスや全日本プロレスなど、日本のいくつかの主要なプロモーションに参加しています。
また、ジャイアント馬場選手やジャンボ鶴田選手を含む日本人レスラーと記憶に残る試合を行っています。
彼は、当時の日本の伝統的なプロレスとは大きく異なる、空中殺法主体の派手な試合スタイルでした。
日本でのミル・マスカラス選手の人気は、ルチャ・リブレを日本で人気のプロレス・スタイルとして確立するのに貢献しました。
多くの日本のレスラーが彼の空中殺法とカラフルなマスクに影響を受け、ルチャ・リブレは今日に至るまで日本で人気のプロレス・スタイルであり続けています。
マスカラスの入場テーマ「SKY HIGH」とは?
マスカラス選手は日本でプロレスをしていた時代、入場テーマの一つとして「SKY HIGH」という曲を使用していました。
この曲はもともとイギリスのポップグループジグソーが1975年に録音したもので、日本および世界各国でヒットしました。
キャッチーなメロディーと軽快なテンポが特徴のこの曲の歌詞は、失恋を歌っています。
相手に愛を捧げたのに、嘘をつかれてすべてを空中分解したという悲しみが表現されています。
日本ではマスカラス選手のテーマのほかに鳥人間コンテストのテーマとしても長年使用されていますが、もともとは、香港・オーストラリア合作のアクション映画「SKY HIGH」のテーマ曲として制作されています。
ただ、曲調はミル・マスカラス選手のプロレススタイルにぴったりで、日本でマスカラスファンを増やすことには貢献しました。
仮面貴族ミル・マスカラスのプロレス人生とは?
さて、現在では「ミル・マスカラス選手が実は他のレスラーには嫌われていた」という別の顔も知られています。
そのため突然、リングがセメント・マッチの場と化し、凄惨な試合に変わることもあったと言われています。
実弟のドス・カラス選手と組んでスタン・ハンセン選手、ブルーザー・ブロディ選手組と戦った昭和58年の世界最強タッグリーグ戦の一戦もその代表例として語られています。
スター意識の高いミル・マスカラス選手は、自分が目立つことに徹していました。
そのためプロレスでは暗黙の了解とされる「技を受ける」ことをしませんでした。
「相手の良さを引き立てる」ファイトはせず、終始自分のイメージで試合を展開する方がファンは喜ぶと信じていました。
そんなミル・マスカラス選手にストレスをためていたのか、その試合でハンセン選手とブロディ選手はミル・マスカラス選手の技を受けようとせず、徹底して荒技を連発しました。
当然ミル・マスカラス選手も怒りを爆発させました。
「リングではいつセメント・マッチになるかわからない。その緊張感が重要なのです」と後にミル・マスカラス選手は語っています。
ミル・マスカラスが76歳で日本のリングに上がった驚きの一戦
初来日から50年以上経っている「伝説のミル・マスカラス」はまだ健在で、正確に言えば、引退はしていません。
令和元年には、日本のリングに上がっています。
その時ミル・マスカラス選手は76才でした。
全日本プロレスの「ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~」で来日し、両国国技館でドス・カラス選手とタッグを組みました。
相手は、カズハヤシ選手とNOSAWA論外選手です。全身ヒョウ柄タイツに身を包んだミル・マスカラス選手は最後にロープ最上段から飛びました。大歓声の中、フライング・ボディ・アタックを決め、ふたりを同時にフォールしました。
なんだかんだいっても、今もなお飛び続ける仮面貴族は生まれながらにしてのスーパースターだと私は思っています。