プロレス的発想の転換のすすめ(65) 飽きない才能と闘いの形
変わらぬ日常の倦怠
同じことを続けていると、どうしても訪れるのが「倦怠期」です。
今回は「倦怠期」と「プロレス」のお話です。
長く続けていると、大概はマンネリを感じる時期がくるようです。同じことを繰り返して、もうお腹いっぱい。食傷気味になる。これは一般的によくあることのようです。
実際、私の知人も先日「20年もおんなじ事してたら、飽きるんです。だから新しいことを始めます」と言って、新しい事業をスタートさせました。
新たな挑戦への価値
チャレンジしていくことは、決して悪いことではないですね。
次々と新しい課題を自分で用意して挑戦していく姿勢は、素晴らしいことだと思います。
ただ、これは個人の資質の問題かもしれませんが、私はなんでも飽きないというか、興味が持続する限りは続けられる性質なのです。
ところが時間は有限なので、新しいことを始めたければ、今のままでは色々不都合があるのも事実です。
継続こそが持つ才能
先ほどの知人も、現在ある事業はある程度そのままで、任せられるところは任せて、空いた時間で新しいチャレンジをするようです。
私個人は、決して新しいチャレンジを否定するわけではありません。
ただ、一つのことを長く続けられること、飽きないことも、一つの才能のうちだと思うようになりました。
底知れない沼の魅力
プロレスという底なし沼は文字通り底知れなくて、どれだけ経験値を上げても、常に上には上がいる世界です。
しかも、それが全然嫌になりません。
むしろ「次はどうなるのか」とワクワクします。 だからこそ、選手も長く現役を続けたくなるんだろうと思います。
変わらぬ景色の真意
自分も生涯一ファンを追求し続けたいし、観戦したいし、入場テーマ曲も追いたいのです。
さて、プロレス界では鎖国体制や変わらない景色を「ぬるま湯」と揶揄する向きもあります。
しかし、刺激というのは劇薬みたいなもので、打ち続ければ打ち続けるほど、その効き目は薄らいできてしまいます。
刺激に頼らぬ緊張感
たしかに、乱入によって新しい顔が現れ、緊張状態が生まれれば一時的には刺激的です。しかし、それには持続性がありません。 刺激というのは、慣れていくと刺激ではなくなります。プロレス団体の「闘い」において、カンフル剤のつもりで入れた外的な刺激が、それまで築いてきた大切な人間関係を壊してしまうこともありました。 派手な仕掛けに頼らなくても、プロレスならではの深い緊張感を醸し出すことは十分可能です。
飽きに抗う闘う姿勢
新しいチャレンジは、新たなる刺激を求める側面もあります。
しかし、それが日常の刺激でなくなった時に、再び飽きがやってきます。
そこをどう乗り越えるか。安易な刺激の誘惑に負けじと、目の前の相手と向き合って「闘い」続ける姿勢こそ、私はプロレスの神髄だと思っています。
四天王が示した継続の極致
この「継続による倦怠」を乗り越えた先にこそ、真の熱狂が宿ります。
かつての全日本プロレスで三沢光晴選手、川田利明選手、田上明選手、小橋建太選手らが繰り広げた「四天王プロレス」はその象徴です。
1990年代、彼らは同じ顔合わせで幾度となく「闘い」を重ねました。
例えば、1995年1月24日の川田選手と三沢選手の三冠戦や、同年6月9日の三沢・小橋組対川田・田上組のタッグマッチ。同じ相手、同じリング、同じ技の応酬でありながら、観客は誰一人として飽きることはありませんでした。
彼らは昨日の自分を超えるために技を磨き、意地をぶつけ合い、「変わらないメンバー」で「誰も見たことがない景色」を創り上げました。
刺激に頼らず、積み重ねの美学で倦怠期を突き抜けて生まれた熱狂があったのです。それは私たちが目指すべき継続の理想像ではないでしょうか。
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