アントニオ猪木の伝説: プロレスファンのための歴史
解説
プロレスラー、実業家、政治家として伝説的なエピソードを持ち、2022年10月に79歳でこの世を去ったアントニオ猪木のドキュメンタリー。「馬鹿になれ!」「元気ですか!?」など、誰もが一度は耳にしたことのある数々の「言葉」を残してきた猪木。その「言葉」を切り口に、アントニオ猪木という人物の真の姿に迫っていく。
映画は、猪木に影響を受け、猪木を追い続けるさまざまなジャンルの人物の、それぞれの視点から見た猪木像を語るドキュメンタリーパートのほか、80 年代に猪木ファンとなった少年が、猪木の「言葉」から力をもらいながら過ごした90年代の青春、2000年代の中年期の人生を描く短編ドラマパート、そして猪木本人の貴重なアーカイブ映像とスチール写真という3つの要素で構成。それぞれの内容から、プロレスラー・アントニオ猪木、そして人間・猪木寛至を立体的にひも解いていく。
ドキュメンタリーパートにはお笑い芸人の有田哲平、プロレスラーのオカダ・カズチカ、俳優の安田顕ら多彩な顔ぶれが出演。短編ドラマパートではプロレスラーの田口隆祐と後藤洋央紀が出演する。ナレーションと主題歌を福山雅治が担当。(映画.comより)
形だけの闘魂伝承
入場者特典が猪木ポーズを模したオカダ・カズチカのステッカーなのだが、今の新日を見ている私でさえノイズに感じた。
正直、こんな形だけの闘魂伝承をオカダ自身はどう思っているか?見る前はそんなことが気になっていた。
良いところは
2010年の「燃える闘魂アントニオ猪木50年の軌跡」はDVDボックスに収録された試合を120分に再編集したものだったが、ノイズがない分、集中して見られた。
最初に良いところを挙げるとするならば、 講談師としての神田伯山さんが巌流島まで出向いて講談をやったところは、引き込まれたし、安田顕さんのインタビューで原悦夫さんが貴重な話をしてくれた点も良かった点だと思う。
誰に見せたいのか?
ただ、全体的な構成がアントニオ猪木を「誰に見せたいのか?」がとうとう最後まで私は理解できなかった。
そもそも現在の新日本の会場で、ガウン姿のオカダは私にはノイズに見えている。何か違和感を感じるのだ。
要するに令和の新日会場ではアントニオ猪木がノイズになっているその理由ではないだろうか?
反応は非常に微妙
それが証拠に、この映画公開が告知された時、会場の反応は非常に微妙だったし、会場入り口に設置された猪木さんパネルと記念撮影していたのは、我々仲間内だけだった。
さて、今回の「アントニオ猪木をさがして」は、誰のために作られた映画なのだろうか?
彷徨える闘魂チルドレン
少なくとも私は没後1年を経てなお、彷徨える闘魂チルドレンたちが観にきていると思っていたし、私が鑑賞した劇場で見た客層は明らかに魔性の闘魂に魅入られた世代に見えた。
もし、「アントニオ猪木をさがして」のメインターゲットが、令和新日の会場にいる今のプロレスファンだとしたら、劇場には若い人がもっといるはずだが、実際はそうではなかったのだ。
逆に今のプロレスは観ないけど、かつてプロレスに熱狂していた層に届けたいなら、この作品には色々不自然な点があまりにも多くあったのだ。
作品の中では一風景
まずは猪木といえば「この人!」というべき、古舘伊知郎さんの影がどこにもなかったのである。
もう1人のキーマンである直木賞作家・村松友規さんはパンフに寄稿されているが、古舘さんの実況こそは試合と共に使われているが、作品の中では一風景にしか見えなかった。
当たり前でない猪木映画
監督は「当たり前でない猪木映画」にしたかったようだが、ドラマパートも残念ながら刺さる内容ではなかった。
そもそもそこに役者として登場する田口監督や、後藤洋央紀(しかも、演技は2人とも上手い)が出てくると、いきなり意識が現実に引き戻されてしまったのだ。
いきなり役者として見るのは
2人を知らなければそこまで意識しなかったかもしれないが、私は残念ながら選手としての2人を先月生観戦したばかりなのだ。
現役のプロレスラーを、いきなり役者として見るのは無理がありすぎる。
わざわざ入れた理由は
冒頭でオカダのことに触れたけれども、下手をすれば棚橋や海野翔太ですら、この映画にとってはノイズになっていたような気がしてならなかった。
作中で海野選手が「自分には怒りがない 」「(猪木さんより)棚橋さんの方を尊敬している」という箇所をわざわざ切り取って入れた理由は何なのだろうか?
誰に対して何を見せたいのか
かつて猪木さんに憧れて、猪木さんの闘魂に魅せられた人間にとっては海野発言は不愉快に映るだろうし、逆に今の新日本ファンにとっては「海野、よく言ったぞ!」という感じになるのかもしれない。
だが問題なのは、その海野を応援しているファン層は、劇場に来ていない事なのである。
それを考えると、この映画は「誰に対して何を見せたいのか」という視点がごっそり抜けているとしか思えなかった。
伝え方が不十分
ドラマパートにしても、「昭和にこういうことがあったんだよ」というのを伝えたいだけなのかもしれない。
だとしても伝え方が不十分なので、もし仮に令和の新日本ファンが劇場に見に来たとしても、何のことだかわからないのではないか?
世間に届くには
出演者もプロレスは好きな人たちで間違いないし、プロレスファンとしては有名な芸能人ではあるのだが、このメンツは「攻めてる」というほどでもない。
常に「世間に届くにはどうしたらいいか」という闘いをしてきた猪木さんに倣うなら、もう少し攻めてもよかったのではないか?あまりに安全パイな感じがする人選に見えた。
この映画は何を探して、誰を何のために、どの層に向けて作っているのかが全くわからなかった。
名文句になぞらえれば
「一人と呼ぶには大き過ぎ、二人と呼ぶには人口の辻褄(つじつま)が合わない」
これはかつてアンドレ・ザ・ジャイアントを表して古館アナが放った名調子である。
この名文句になぞらえれば「アントニオ猪木をさがして」は「ドキュメンタリーとしてはこじんまりしすぎてしまっており、フィクションと呼ぶには説得力の辻褄が合わない」のだ。
そこに至るまでの過程が
たとえばドラマパートの最後で使用されていたベイダー戦などは、劇場の大スクリーンでそのまま見れば、また新しい発見がある試合だっただろう。
猪木さんのパネルを棚橋が再び道場に戻すところは、確かに感動的だった が、そこに至るまでの過程が中途半端にしか描かれていないため、場面として非常に弱いものになっているのも大変もったいなかった。
私も知りたかった
じゃあなぜ今戻すの?棚橋の中でどういう心境の変化があって、「戻そう」という気になったか?
そこをもう少し掘り下げて聞いてもらえればよかったし、私も知りたかった。もしかするとカットされた部分で棚橋は語っていたかもしれないけれど、そこは拾ってほしかったところである。
1つの流れとして
そもそも時間は過去と現在に切り離されるものではなく、 1つの流れとして繋がっているものである。
だから、現在において過去がノイズになることはあり得なく、現在が過去においてノイズになることもまたあり得ない。
要するに見せ方がうまくないからこそ、ノイズになってしまうのであって、時間や歴史には罪はない。
現在進行形の
WWEではちゃんと歴史を踏まえ、歴史を丁重に扱った上で、 現在進行形の素晴らしいエンターテインメントを見せている。
今の新日本が目指そうとしているのがWWEの路線であるならば、 過去の扱い方がぞんざいであってはならない。また過去を持ち上げるために、現在も落としめてはならない。
また逆に過去をおとしめて、現在を美化することもあってはならないはず。
現在の新日本がノイズに
要するにこの映画では、両方ともできていなかったのだ。
演出が仕事をしていなかった「燃える闘魂アントニオ猪木50年の軌跡」と比較したら、「アントニオ猪木をさがして」の演出家は仕事していたと思う。
しかし、この映画では現在の新日本が逆に私にはノイズに見えた。
誰に必要とされているか?
だから私が探したかった猪木さんはノイズの向こう側にいる感じがして、最後まで探すことは出来なかった。
アントニオ猪木が「誰に必要とされているか?」という点を制作する側が見誤ってしまった点が1番残念でならなかった。
私の心は泣いていた
北九州で本作を鑑賞した帰り道、運転していると巌流島が見えてきた。何か猪木さんの魂が泣いている気がした。
実際は誰も泣いてやしない。ただ、私の心は泣いていた。それは間違いない。
猪木さんを探す私の旅
昭和の少年たちにとって猪木さんは今も私たちの心の中で生き続けている。
アントニオ猪木さんを探す私の旅は、これからも続いていくことだろう。
たとえ新日本から怒りがなくなっても、闘魂が風化したとしても、猪木さんのパネルが再び外されたとしても・・・