プロレス的発想の転換のすすめ(116) プロレスと原理主義の歪み
原理主義の意味
今回は「原理主義」と「プロレス」についてお話しします。まず、原理主義とは以下のような意味を指します。
特定の人物や文化、思想などを絶対的なものとして崇拝する過激派層を指す宗教用語(ファンダメンタリスト)。転じて、特定の作品や状態などを神聖化し、それ以外を排除しようとする攻撃的な人間を揶揄する意味でも用いられる。(参照:ピクシブ百科事典)
ネットでのスラング化
このように、原理主義とはもともと宗教用語でした。
それが現在ではネットスラング化し、「一定の条件下における過激派のオタクを揶揄する表現」として広く使われるようになったのです。
プロレス界の原理主義
これをプロレスに置き換えて考えてみましょう。過激なファンの中には、自分の支持しないスタイルを貶めるなどの迷惑行為に走る人もいます。
こうした層は、いわゆる「厄介なファン」と同義として捉えられがちです。
プロレス界における「神話や宗教」とは、世界中に存在する多様な団体や選手、そして独自の試合スタイルそのものだと言えるでしょう。
終わらない価値観の衝突
宗教闘争が絶えないのと同様に、プロレス界でも好きなジャンルや団体、選手、そして価値観の押し付け合いが起こります。
多様性を許容できず、物事の加減ができない人間が存在する限り、この「原理主義」的な衝突がなくなることはないのかもしれません。
自己正義という名の凶器
原理主義者が厄介なのは、前述の通り「我こそが正義である」という固い信念を持っている点です。
それゆえに、自分が信じる正義に合致しないものは、すべて「悪」と断じてしまいます。
信仰と争いの境界線
もちろん、何を信仰するか、どの選手を「推す」かは個人の自由です。しかし、その熱意が行き過ぎて争いに発展してしまうのは、どの世界でも同じ悲劇を生みます。
互いを貶める無意味さ
団体同士が激突する「対抗戦」において、ファンが熱く盛り上がるのは素晴らしいことです。
しかし、熱くなりすぎて相手側を貶める行為は無意味であり、何よりプロレス界全体の発展を妨げてしまいます。
オールプロレスの精神
プロレスというジャンルが今後も栄えていくためには、どこか一つの団体だけが強いという状況は好ましくありません。
「自分の推しさえ良ければ、他はどうでもいい」という考え方は、業界全体を盛り上げる「オールプロレス」の精神には馴染まないのです。
多様性こそがプロレス
そもそもプロレスというジャンルは、その枠組みの中に全く異なる特徴や特性を持つ選手、スタイルが共存している点に最大の魅力があります。
まさに「多様性」という言葉は、プロレスのためにあるようなものです。
表現としての「闘い」
「闘い」を表現しながら、同時に豊かな多様性を持ち合わせているのがプロレスです。
これほどまでに懐が深く、複雑なジャンルは、世の中にそう簡単には存在しないでしょう。
主役はリングの選手
そして何より、リングの上で命を懸けて「闘い」を繰り広げるのはプロレスラーです。
ファンではありません。
その一線を履き違えることなく、プロレスを皆で尊重し、楽しみたいものです。
【追加:結びの文章】
「闘い」を表現しながら、同時に多様性を持ち合わせている事例は、過去の歴史的な事件にも見て取れます。
かつて、ストロングスタイルを標榜する「過激な仕掛け人」として知られた新間寿さんは、異種格闘技戦などを通じて「最強」という名の原理主義を突き詰めました。
しかし、その一方で新間さんは、初代タイガーマスクのような華やかな空中殺法や、エンターテインメント性も同じ「闘い」の枠組みの中に共存させました。
多様性の証明
人間心理において、人は「正解」を求めたがる生き物です。
しかし、1980年代のUWF運動のように、あまりに「真実」や「純粋な闘い」を追求しすぎた結果、団体が分裂・崩壊に至った歴史もあります。
この「純血主義(原理主義)」の危うさと、それを乗り越えて、UWFの思想さえも飲み込んで肥大化した現在のプロレス界の姿こそが、多様性の証明です。
衝動と理知の交差
激しい「闘い」を通じて相手を叩き潰そうとする衝動と、異なる価値観を認め合いながら興行を成立させる理知。
この矛盾する二つの心理がリングという四角いジャングルで交差するからこそ、プロレスは単なる格闘技を超えた、深淵な人間ドラマを紡ぎ出すことができるのです。
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