プロレス想い出回想録 ・プロレスと街の記憶をたどる⑤ 下関に残された、消えないリングの記憶。
◆ 昭和〜平成、下関にプロレス中継が来ていた頃
今でこそ下関ではほとんど生でプロレスを観る機会がなくなってしまいましたが、昭和時代の旧体育館から、海峡メッセに移る平成の頭くらいにかけては、下関でも結構テレビ中継が入ることがありました。
昭和62年の新日本や、1994年10月19日のSGタッグリーグ戦、及び海峡メッセでの闘龍門JAPANやドラゴンゲートなどがその一例です。
それくらい、生のプロレスが田舎に来るということは特別な事だったのです。
プロレスではありませんが、私が子どものころに父に連れられて、体育館の隣にある陸上競技場で行われたNHKの番組公開収録を観に行ったことがあります。
当時司会されていたレジェンドアナウンサーの宮田輝さんを生で見た最初で最後の機会だったのですが、当時は宮田さんの凄さがわかっておらず、かなり後になってものすごく貴重な機会だったということを改めて思い知らされたのでした。
◆ 大洋ホエールズの記憶と“向洋町スポーツエリア”
さて、下関では1950年から2年間ほどですが、プロ野球の大洋ホエールズが本拠地を構えていました。
その後、松竹ロビンスと合併してからもしばらくは下関市営球場がホームとして使われていたこともあり、今でも下関には大洋の後継球団である横浜DeNAベイスターズのファンが生き残っています。
その下関市営球場、陸上競技場との間に旧・下関市体育館がありました。
下関で行われるスポーツイベントはこれらを擁する向洋町で開催されるのが常でした。
しかし、私の子ども時代には既に市営球場は使用されておらず、廃墟のような状態になってしまっていました。
普通に外からも入ることができ、グラウンドで遊んでいたことも覚えています。
◆ 80年代末〜90年代の“団体乱立時代”と、旧体育館に来た面々
さて、1980年代末期から1990年代にかけて、たくさんの独立系プロレス団体が生まれました。
今でこそ、そのほとんどは大都市中心に大会を開くスタイルか、もしくは地域密着型に移行してしまいましたが、創成期は基本的にどの団体も全国巡業を基本にしていました。
ですので、90年代になると新たにジャパン女子から分裂したJWP、まだデスマッチが主力だったころのFMW、後にデスマッチ団体になっていく大日本などが旧・体育館を使用しています。
◆ 1995年、FMW旧体育館大会の衝撃― ミスターポーゴ、禁断の“火吹き”事件 ―
特に印象に残っているのは、1995年2月10日に開催された FMW「日本全国縦断大仁田厚メモリアル引退ツアー・ラストファイト〜最終章2月シリーズ」第4戦のメインイベントで行われた、
「ノーロープ有刺鉄線ストリートファイト・トルネードデスマッチ・時間無制限一本勝負」
大仁田厚&新山勝利&田中正人&黒田哲弘 vs ミスターポーゴ&グラジエーター&保坂秀樹&非道戦。
大仁田選手と対峙したミスターポーゴ(初代)が、火気厳禁の体育館で口から火を噴いてしまったことでした。
FMWは山口でもいくつか大会を開いていたのですが、会場ごとに何かやらかしてしまい、二度と借りられなくなっていました。
それはハヤブサ政権の新生FMWになっても同様で、結局1992年から変わらず貸し出してくれる防府市スポーツセンター以外は山口で大会を開かなくなってしまいました。
しかも大会が開催されるのが大概1月か2月だったため、当時冷暖房が完備されておらず、土禁だった防府での観戦は結構地獄だったのです。
旧下関市体育館のFMW大会はこの一回のみでしたが、その後、超戦闘プロレスFMWとして2015年8月30日に海峡メッセ大会を開催するまで20年もの間、FMWの下関大会は途絶えることになります。
◆ 1996年、大日本プロレスで起きた“忘れられない一幕”
さて話を旧・下関市体育館に戻しましょう。
もうひとつ忘れられないのは、1996年5月27日に開催された「96’大日本戦記〜激乱」第四戦での出来事でした。
この日のセミファイナルで、ちょっとしたハプニングが起きたのです。
花道に群がっていた観客の一人が、勢いよく入場してきたサブゥー選手の足を引っかけたのでした。
転倒したサブゥー選手は、事態を把握した瞬間に激怒し、その観客に詰め寄ろうとしましたが、セコンドについていた若手に静止されていました。
その観客は別の若手にはがいじめにされ、場外につまみ出されていきましたが、その一部始終を二階席から見ていた私と友人は、なんともいえない気分になっていました。
せっかくこれから始まる試合を台無しにしてくれた客に対して、怒りしか感じなかったのをよく覚えています。
しかし、その怒りは試合が進むにつれて、消え去っていきました。
サブゥー選手の破天荒なプロレスに、謎のマスクマン・アクエリアス選手が見事に応えていったからでした。
試合は白熱した末に、13分12秒、サブゥー選手が雪崩式フランケンシュタイナーで勝利。
試合が終わるころには、不愉快な観客のことなどどうでもよくなっていました。
「これは名勝負数え歌になる組み合わせだ!」
大会終了後に寄った店でちゃんぽんを食べながら、友人と二人で興奮して語り合ったことは今でもよく覚えています。
◆ アクエリアス=TAJIRI、しかし…― “下関の一夜”は現実か、夢幻か ―
このアクエリアスというマスクマンの正体は後に、WWEスーパースターとなるTAJIRI選手でした。
WWEに上がる前、TAJIRI選手はECWにも上がっており、そこでサブゥー選手と接点があったかもしれない、と思いWWEネットワークで動画検索してみたのですが、サブゥー対TAJIRIのシングルマッチはついに見つかりませんでした。
サブゥー対アクエリアスが下関で行われた記録は確かに存在しています。それは間違いありません。
だが、我々はもしかしたら、 とんでもない夢幻を見せられたのかもしれない——と、そんな気になることが今もあるのです。
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