プロレス的発想の転換のすすめ(67) 敗者が光り輝く闘い
祖母から受け継いだ熱
今回の記事は、私が大好きなプロレスへの思いをしたためるために作りました。
私が始めた趣味の多くは、アニメやマンガ、イラストなど、自分一人で見つけて始めたものがほとんどです。
しかし、プロレスは少し違います。簡単に言うと、亡き祖母の影響がむちゃくちゃあるんですよね。
我が家の茶の間にあった闘い
祖母はプロレスだけでなく、ありとあらゆるジャンルのスポーツ観戦をしていました。
もちろんテレビを通してですが、昭和40年代というのはチャンネルをひねればプロレス、キックボクシング、ボクシング、相撲……と、何かしらのスポーツ中継を毎週見ることができた、とても幸せな時代でした。
そんな中で出会ったのがプロレスでした。一番古い記憶は、ヤマハブラザーズと組んでいた、当時10代だったはずの藤波辰爾(辰巳)選手の姿です。
違和感のない純粋な趣味
だいたい人に影響されて始めた趣味というのは、相手に合わせて無理をしていると、自分の中で違和感が出てくる場合があります。
友達の話の輪に入りたい、一人にされたくないという恐怖から話を合わせてしまうパターンは最悪ですね。
多様なスタイルを愛でる
しかし、影響されることが悪いとは思いません。
始めてみたら案外自分に合っている場合もあるからです。
私もできるだけ食わず嫌いせず、興味を持つようにしています。
この姿勢が今のプロレス観戦にはとても役立っている気がします。
多様化の時代、プロレスもまた例外ではなく、ショーアップされたアメリカンスタイル、妥協なき格闘スタイル、空中戦主体のメキシコスタイル、あらゆる凶器が使用できるデスマッチなど、プロレスと一口に言いながらも、その見せ方は実に様々です。
好奇心が導いた観戦道
そして、それぞれのスタイルに固定のファンがついて熱心に応援しています。
私はこの様々なスタイルそのものを楽しむタイプのファンです。
好奇心の赴くままに足を運んでいたら、こうなってしまいました。
これもひとえに、直感を信じて行動したからにほかなりません。
色んなものに興味が持てる素地が自分に備わっていたことは、大変ありがたいことだと感謝しています。
自分の感性を信じ抜く
自分自身にあまり自信がない私ですが、趣味の中でもプロレスに関する目利きには絶対的な信頼を置いていることも大きいと思います。
自分の感性を信じ切れていないと軸が揺れますし、気持ち的にもしっくりきません。
プロレスは「闘い」を見せますが、それだけではない要素がたくさんあります。大きく分けると、以下の3つの魅力があると私は考えています。
(1)敗者が時に主役になり得る
(2)予定調和では収まりきれない素晴らしいエンターテインメントである
(3)敗者のドラマに光をあてる
(1)の、普通ならスポットが当たらない敗者が主役になることもありますし、想定し得ない事態もたくさん起きます。
敗者が主役になるのは、他のスポーツではなかなかありません。
オリンピックは例外として、プロスポーツで敗者がピックアップされることはそうそうないでしょう。
もし敗者が何も語れないのであれば、それは勝者の側からしかドラマを見ていないとも言えます。
しかし、別の視点から見たら別のドラマが見える。それがプロレスの良いところでもあります。
伝説となった引退試合
私が印象に残っている敗北といえば、やはり2015年の天龍源一郎選手の引退試合、オカダ・カズチカ選手との一戦における天龍選手の姿でしょうか。
現役のIWGP王者にして20代の若き新日本の顔でもあるオカダ選手に、65歳の天龍選手が満身創痍で挑んだこの「闘い」は、多くの感動を生みました。
正直、天龍選手の全盛期を知る世代である私は、現実を受け入れるのが怖くて、ライブでは見ないという選択をしました。
常識を覆した気迫の敗戦
しかし後日、テレビで見た引退試合は、それまでの引退試合の常識を覆すものでした。
オカダ選手は引退するからといって決して天龍選手相手に手を抜きませんでしたし、体が自由に動かない中でも天龍選手の気迫は最後まで衰えませんでした。
形の上では天龍選手の敗北というのは至極当然なのですが、負け方が素晴らしかったのです。
心に刺さるものがたくさんあって、感動に打ち震えたことを昨日のことのように思い出せます。
敗者が教えたプロの敬意
これをオカダ選手目線だけで見ていたら、ひどくつまらない感想になったと思います。
しかしこの試合こそ、敗者目線で見てこそ感動が倍加する典型例と言っていいでしょう。
後に「かっこ悪いことがかっこいいということを教わった」とオカダ選手が述懐した通り、この試合の後から、オカダ選手の試合には相手に対する敬意が見えるように変化していきました。
それもまた面白い現象だったなと思います。
ライブゆえの予測不能な熱
(2)の、予定調和では収まりきれないライブスポーツというのは、まさにプロレスの魅力の根幹になる部分です。
エンターテインメントとしても素晴らしいレベルにあるジャンルですが、ライブである限り、想定し得ないことは起こります。
可能な限り事故がないよう、プロレスラーは普段から厳しいトレーニングを欠かしません。
命懸けの覚悟に震える
それでも完璧に不幸な事故を防げるとは限りません。
そんな中でリスクを背負いながら「闘う」プロレスラーの姿に、我々は感情を動かされるのです。
件の天龍戦では、動かない体を引きずって必死にトレーニングする天龍選手の姿も映されていました。
おそらく、そこまでしなくてもよかったのかもしれません。
老いと全盛期の間での闘い
しかし、そこまでしてきたからこそ、65歳まで驚異的なファイトを続けてこられたのでしょう。
正直、衰えという点では全盛期とは比較にならなかったのも事実です。
天龍選手が闘っていたのは対戦相手だけでなく、全盛期の自分、そして「今ここにいる自分」とも戦っていたのだと私は思っています。
最高の散り際が示すもの
だからこそ、動かない体で延髄斬りも出したし、パワーボムにも挑戦したのです。
そこに感動がないわけがありません。
これがもし予定調和なら、オカダ選手が天龍選手にある程度花を持たせて終わりだったでしょう。
しかし、そうしなかったところが天龍選手らしいし、散り際としてはこれ以上ないものになったのではないでしょうか。
多様なプロレス観の交差点
今回は私が感じるプロレスの魅力をピックアップしてみました。
これは私のプロレス観の核になっているものです。
もちろん、これとは違う核を持つ人もたくさんいると思います。
その核になるものが多様であるほど、プロレスはさらに面白い見方ができると私は思っています。
無様にのたうち回り、ボロボロになっても立ち上がる。
天龍さんのように「かっこ悪いことがかっこいい」と胸を張って言える泥臭い生き様こそが、プロレスという「闘い」が私たちに教えてくれる最大の美学なのだ、と私は思っているのです。
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