私的プロレススーパースター烈伝⑭大熊元司
馬場さんの二代目付き人
今回は極道コンビとしてアジアタッグ戦線で大活躍した大熊元司選手のご紹介です。
大熊選手は中学校卒業後に大相撲の伊勢ヶ浜部屋に入門したものの、伸び悩み1962年5月場所限りで廃業。
大相撲を廃業後すぐ日本プロレスに入門し、北沢幹之選手を相手にデビューを果たします。リング外ではジャイアント馬場の二代目付き人になりました。
大の巨人ファンだった
大熊選手は全選手の背番号を言い当てるほどの大の巨人ファンだったため、巨人の藤田元司さんの活躍に刺激され、リングネームも本名に戻したという逸話も持っています。
1967年下期、グレート小鹿とともに海外修行でアメリカに渡り、南部のテネシーおよびジョージア地区でコンビを組んで活動。帰国後の1972年8月、日本プロレスを離脱してジャイアント馬場さんの新団体全日本プロレスに移籍。
極道コンビ時代を経て
全日本プロレスではグレート小鹿さんとの「極道コンビ」を復活させ、アンダーカードのタッグ戦線において活動。アジアタッグ王座させ、アンダーカードのタッグ戦線において活動。アジアタッグ王を4度獲得し、1976年から1981年にかけて王者チームとして活躍しました。
スタン・ハンセン選手とはよく対戦しており「ラリアットがヒットしたときは骨同士がぶつかり合うような感触で、私の左腕もかなりひどい痛みが走ったのだから、大熊はそれ以上に痛かったことだろう。それでも彼は一度も愚痴ったり、文句を言うことはなかった。」とハンセン選手は自著で述懐しいています。
アンドレの最後の試合
現役晩年は「悪役商会」のメンバーとして、ファミリー軍団と明るく楽しいプロレスを展開。「グリコポーズ」はおなじみのアピールでした。
最後の試合は1992年12月4日日本武道館、永源遙選手&渕正信選手と組んでの馬場&アンドレ・ザ・ジャイアント&ラッシャー木村戦でした。
試合はアンドレ選手が大熊さんをフォールし、奇しくもアンドレ選手の日本での最後の試合にもなりました。
頑強な体を誇ったが・・・
大熊さんは1992年12月27日、現役のまま急性腎不全で死去します。享年51歳。大熊さんは頑強な体を誇り、また酒豪で有名で、移動中の食堂車にある
酒を全て飲み干したというエピソードが残っているほどです。
この酒の飲み方が死期を早めてしまった点は非常に残念です。先ほどのアンドレ選手もまた大酒のみで大熊さんの死去した1ヵ月後にこの世を去り、お互いに生涯最後の対戦相手となったことは皮肉な話でもあります。
大熊さんはいち早く全日本プロレス設立に馳せ参じた一人であり、馬場さんの信頼も大きかったため、追悼セレモニーの際、遺影を持つ馬場さんは悲痛な表情を見せていました。