プロレススーパースター烈伝⑳ラッシャー木村
大相撲からプロレスへ
今回は金網の鬼として、またユーモラスなマイクで人気を博したラッシャー木村さんのご紹介です。高校時代に夢であるプロレスラーになるための基礎体力作りとして、高校を中退して大相撲の宮城野部屋に入門[します。
幕下20枚目まで昇進しましたが「十両に上がったら辞められなくなる」という理由で1964年9月場所限りで、親方(元横綱・吉葉山)の慰留を振り切り脱走して廃業しました。
大相撲廃業後、1964年10月に日本プロレスに入団。1965年4月2日、リキ・スポーツパレスに於いて、高崎山猿吉戦でプロレスデビューします。
金網の鬼
しかし、豊登さんの付き人をしていた関係から、翌1966年に豊登さんが興した東京プロレスの旗揚げに参加し、1967年の東京プロレス崩壊後は吉原功社長に口説かれて国際プロレスに移籍します。
1969年1月1日にリングネームをラッシャー木村に改名。1970年10月8日には大阪府立体育館にてドクター・デスを相手に、日本初の金網デスマッチを行います。
金網デスマッチでは不敗を誇り、「金網の鬼」の異名が定着しました。1974年6月5日には米沢にて、セーラー・ホワイトと日本初の金網チェーン・デスマッチを行っています。
最強説の裏付け
一方で、木村さんはビクトル古賀さんからサンボ技を直伝されており、実は日本きっての関節技の名手(主に足関節技が得意)なのに、自分のスタイルに合わないからと試合ではサンボ技を殆ど見せぬまま引退した隠れシューターなのではないかと囁かれています。
日本で一番強かった?
また、ビル・ロビンソンさんの教えを乞い、ベンチプレスは200キロを軽くクリアする怪力を持ち、相撲で鍛えた下地も考え合わせると実は日本で一番強かったのではないかと推測されたりと、様々な憶測を生んでいます。少なくとも、「義兄弟タッグ」の時期になっても、木村さんはスポーツ会館でのサンボのトレーニングを欠かさなかったそうです。
ちなみにルー・テーズさんは「馬場・猪木・木村の中で誰が一番強いか?」との問いに、「相撲とレスリングをマスターしている木村だ」と答えています。