[プロレス] プロレススーパースター烈伝⑲吉村道明

プロレス入り以前

今回は火の玉小僧という二つ名をもつ吉村道明さんのご紹介です。吉村さんは日本プロレス界の黎明期を支えた一人です。

終戦後、機雷除去の仕事を一年間務めた後、トヨタ自動車に勤務[し、退社後、近畿大学へ入学し、相撲部に入部。学生横綱(1949年、史上2人目となる大学1年で優勝)、国民体育大会個人優勝など輝かしい実績を残しました。

1954年4月、大阪を本拠地として活動していた全日本プロレス協会へ入団しますが、崩壊後、力道山選手にスカウトされて1957年5月に日本プロレスへ移籍します。

日プロ移籍後

日本プロレスへ移籍後は、軽快な身のこなしからの回転エビ固めなどの得意技で人気者となります。

また、若手レスラーの壁として立ちはだかり、デビュー間もないアントニオ猪木(当時は猪木寛至)さんとの対戦成績は19連勝を記録しています。

火の玉小僧

1961年にヘビー級へ転向し、力道山選手のパートナーとしてタッグチームを組む機会も多くなり、大柄の外国人レスラーに血だるまで立ち向かう姿から「火の玉小僧」と呼ばれ活躍しました。

縁の下の力持ち

一人で相手の攻撃を受けまくる姿は、結果的にタッグ・パートナーを引き立たせる効果もあげていました。日本プロレス時代には縁の下の力持ち的存在で現場監督のほか、興行の業務処理などを担当していました。人格者だったため、多くの後輩から慕われていたそうです。

屈指の技巧派

また日本プロレス屈指の技巧派としても有名で、カール・ゴッチさん、キラー・カール・コックスさんの初来日に際して第一戦の相手として起用されたのも有名です。

必然的にそれぞれの必殺技であるジャーマン・スープレックスとブレーンバスターを日本で最初に食ったのも吉村さんでした。

2フォールを奪った唯一の・・・

なお、ゴッチさんは吉村さんを力道山選手より上だと評価しており、初来日の1961年に13回、2度目の1966年に1回対戦。

戦績は吉村さんの1勝3敗9引分1ノーゲームで、ゴッチさんから2フォール勝ちを奪った唯一の日本人レスラーが吉村道明さんなのです。

引退後

吉村道明さんは、1973年3月3日に母校の近畿大学記念館大会で引退試合を行い、「ラバウル小唄」が流れる中、プロレスラーを引退されました。

プロレス引退後は、母校の近畿大学相撲部顧問として後進の指導にあたりのちに大関となる長岡末弘(朝潮、現高砂親方)を指導し、2年連続してアマチュア横綱に導くなど手腕を発揮しました。






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