プロレススーパースター本列伝 東京12チャンネル時代の国際プロレス
内容
1974年2月にエースのストロング小林を新日本プロレスに引き抜かれて危機に陥った国際プロレスの吉原功社長は、全日本プロレスと提携関係を強めていったが、ジャイアント馬場&日本テレビの策略(?)で団体のイメージが急落。その後、剛竜馬離脱騒動で怨敵・新日本と急接近し、提携先を鞍替えしたものの…1981年3月、国際プロレスは東京12チャンネル(現・テレビ東京)にレギュラー中継を打ち切られ、同年8月に団体崩壊という結末を迎える。
“第3団体”を潰したのは、誰なのか――。東京12チャンネル『国際プロレスアワー』のチーフプロデューサーだった田中元和氏の極秘資料を紐解きながら、昭和プロレスの第一人者・流智美がリング内外で起きた数々の“事件”の真相、他団体との対抗戦やマックメークにおける失策、テレビ中継の裏事情などを徹底検証。放映存続のために東京12チャンネル側が思い描いていた新団体設立構想、幻に終わった5日間連続ゴールデンタイム生中継特番「ワールド・チャンピオン・カーニバル」等々、驚愕の新事実も明らかに!(テキストはamazonより)
国際は未知の団体
個人的にプロレスを知ったのは新日本からで、全日も国際も私にとっては未知の団体だった。
山口県はクロスネットというものがあって、複数の東京キー局の放送局から流れる番組を、2つの地方局がわけあって放送していた。
全日も未知だった
山口県には日本テレビ系列とTBS系列の局があって、日テレ系の土曜夕方に放送されていたのは全日本ではなく、ワールドプロレスリングだった。
もっとも西の端の下関は九州局も映ったのだが、全日を放送していた福岡のUHF局だけは入らなかったのだ。
はぐれ国際軍団が最初
国際プロレスがTBSで放送されていた時代は、私も幼すぎたし、東京12チャンネル時代はそのネット局すら存在していなかった。
従って国際プロレスの存在を知ったのは、倒産後新日本に乗り込んできた「はぐれ国際軍団」になってからが最初ということになる。
どうも私は地元で見られぬもの、故あって見ることが叶わなかったモノに強烈な想いを抱くようなのである。
球界再編
プロレスから話は逸れるが2004年までプロ野球パシフィックリーグに所属していた「近鉄バファローズ」を、私は熱心に応援していた。
だが、球界再編騒動によって、近鉄はオリックスに合併され、新球団東北楽天が参入したことで、形だけ12球団を維持してプロ野球は存続している。
歴史は傍系へ
ただ、名前を引き継いだオリックスの歴史は「阪急」が正統な歴史とされ、近鉄の歴史は傍系に追いやられた。
ましてや楽天は近鉄とは全く関係ない新球団である。
近鉄の消滅と共に私は野球を見なくなった。
もしも
もし新日本ではなく、国際プロレスが最初のプロレスとの出会いだったら、私は今もプロレスをみていただろうか?
そんな思いを浮かべながら病室で「東京12チャンネル時代の国際プロレス」を読んでいた。
国際プロレスへの卒論
昭和49年から昭和56年までの12チャンネルの放送期間の克明な出来事を流智美さんなりの視点で「田中ディレクターのメモ」を含めた分析が素晴らしい。「国際プロレスへの卒論」と表現しているのもうなずける話である。
また、「実録・国際プロレス」からの引用もあるので、時系列的にあの分厚い辞書みたいなインタビュー集を読んでから、「東京12チャンネル時代の国際プロレス」を読むのがいいかなとも思った。
吉原社長の功罪
国際プロレスを語る際に絶対出てくる「リアルヒール」グレート草津さんにとどまらず、その上司である吉原社長をここまでこき下ろした書籍は今までなかったと思われる。
吉原社長の団体の責任者としての誤った方向性だったり、12チャンネル運動部に対しての上から目線での発言は、それこそが吉原さんの実像だったんだろう。
スターになれなかった
もし吉原社長がアマレスあがりの元プロレスラーでなく、馬場・猪木の先輩でもない純粋な「背広組」だったら、国際プロレスはどうなっていただろうか?
最終的には吉原社長もスターになりたくてなれなかった人だったのかもしれないので、結末は同じだったのかもしれないが。
貴重な道しるべ
近鉄消滅の経緯とはまた異なる形で消滅した国際プロレスだが、真相を知った今でもプロレスを嫌いにはなれない。
私のように国際をリアルタイムで体験できた世代でありながら、国際を素通りし後追いしているマニアにとって「東京12チャンネル時代の国際プロレス」をはじめとする国際プロレス本は、歴史を知る上での貴重な道しるべになっていることだけは間違いないと思う。