老害プヲタ・プロレス“ザ・モンスター”ハラダの発想の転換のすすめ#58 沈黙は金になるか否か?
締めは必ずマイク?
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今回はコメントとプロレスの話です。
最近でこそ「締めは必ずマイク」という流れが主流になっていますが、そもそもプロレスには、マイクで締めるという習慣自体がありませんでした。
主にWWEがメジャーになり、レスラーがマイクをもつ習慣がいつしか日常になっていきました。
ご唱和から
日本では私が記憶する限り、1990年2月10日の新日本プロレス「スーパーファイトIN闘強導夢」のメイン、猪木&坂口対橋本&蝶野で、猪木さんが行った「1.2.3.ダー!」の「ご唱和」が最初だったと記憶しています。
そして、全日本プロレスでラッシャー木村さんのマイクによって、完全に定着したと思われます。
マイクがないと締まらない
創始者が始めたせいか、試合後のマイクに関しては新日本で完全に定着したように思います。
お客さんもそれがないと物足らないという空気になっているので、どれだけ凄い試合をしても、マイクがないと締まらない状態になっています。
一方ぜ全日本系は、創始者の馬場さんがあくまで猪木さんの挑発を受け流す傾向にありました。
木村さんのマイクも馬場さんが丁々発止でやりあうというものではなく、あくまで木村さんが一方的にしゃべっているという体になっていました。
挑発する新日、黙して語らない全日
団体の超初期には、テレビの勝利者インタビューに応える馬場さんの姿を目撃できますが、これはマイクによる締めとはまた別ものでしょう。
挑発する新日系、黙して語らない全日系と、これまたカラーがはっきりわかれているのも面白いところです。
ところが、プロレスの名言が新日一辺倒かというと、そうでもなかったりします。
ノーコメントに異議?
これは当時のマスコミや記者が普段から取材を重ね、選手と関係性を作って、選手から引き出したものもたくさんあったと思います。
2022年の「1・8」でも試合後NOAHの選手はほとんど語らずに会場を後にしました。
これはNOAHが全日の系譜に連なる事から考えても、至極当然といえば当然なんですが、ここに異を唱えたマスコミがいました。
ノーコメントも表現の一つ
この記事のタイトルには「言葉力」の欠如という文言が登場しているのですが、ノーコメントも表現の一つであることを考えると、選手が必ずしもコメントを残していく理由はないのです。
コメントがないならないで、その行間を想像するのもプロレスファンの矜持だし、想像させるのもプロレスラー。
そう考えると、沈黙を金にできなかったのであれば選手に、沈黙から何かを引き出そうとしなかったのならば、マスコミにも非があると私は考えます。
言語が間に入らなくても
ここでは誰かを悪者にしたいという意図はありません。
ただ、なんでもしゃべればいいというのも違うし、逆に沈黙に意味を持たせられないなら、口を開いてもいいのです。
実際プロレス界には「名言」も多いですからね。
ただし、本来のプロレスは、言語が間に入らなくても、お客さんが楽しめるエンターテインメントであることは間違いないと私は思っています。