プロレス想い出回想録 猪木について考える事は喜びである⑧プロレスに必要な怒りとは
2011年のIGF
今でも忘れられないのが、生でアントニオ猪木をみた最後の機会になった、2011年のIGF福岡大会での出来事。
第七試合のキース・ハンソン対ザ・プレデターが、あまりにしょっぱい試合になってしまった。
観客にも
後ほど出てきた猪木もおかんむりで、リング上の2人に叱咤するだけでなく、観客に向かって「(つまらない試合には)怒っていいんだ!」と発言していた。
2022年10月現在はまだコロナ禍にあるため、観客が自由に意思表示するのは難しいという事情がある。
猪木語録には
そのため、お客さんがかつてのようにブーイングしたり、ヤジ飛ばしたりはできなくなっている。
猪木語録の中には度々怒りについて言及したものがでてくる。
エンタメ化
それは「対世間」だったり、対戦相手にだったり、とにかく「怒り」を戦うエネルギーに替えて、猪木はリング上で表現していた。
しかし、最近のプロレスは良きにつけ悪きにつけ、エンターテインメント化したため、選手も観客も怒りを表現することは、極端に減ったと私は感じている。
場の空気が怒りに
先述のブーイングが登場する以前は、ヤジ以上の怒号や、なんなら実力行使すらして、観客も怒りを表現していた。
それは決してスマートではないのだが、プロレス会場…特に猪木がいた時代の新日本は、場の空気が怒りに満ち満ちていた。
どれもが酷い内容
それでふと思い出したのだが、ちょうど猪木が離婚騒動で揺れていた1988年の下関大会の事。
私は当時の仕事を抜け出して、第二試合から観戦。当時「責任」をとって第一試合に出ていた猪木の試合は見られなかったのだが、とにかく続く試合、続く試合どれもが酷い内容だった。
この体たらく
昔の猪木なら飛び出してきて、選手に制裁を加えかねないくらいだったのだが、離婚騒動の渦中にあるせいか、猪木も出てこない。
あれだけ「怒り」に対して執着するアントニオ猪木にして、この体たらく。
メインを観ずに
ついに我慢しきれなくなった私はメインもみずに席を立ってしまった。
私は、よほどのことがなければ大会を最初から最後まで見る派なのだが、そんな私を怒らせるくらい、88年の新日本・下関大会は酷かった。
観客が暴徒化
昭和末期の新日本は、かつての栄華もどこへやら。長州力が全日本からUターンしたものの、全く起爆剤にはならなかったのである。
1987年12月27日 両国国技館で行われた イヤーエンドin国技館 では、たけしプロレス軍団登場に端を発する数々の「やらかし」で観客が暴徒化さえした。
不穏な空気
後に全日本プロレスの打ち上げで船木誠勝が「あの時代は、どこでも暴動がおきるものだと思っていました」というほど、会場は不穏な空気に満ち満ちていた。
今にして思うと、わざと猪木は観客にも火をつけたかったのかもしれない。
ファンも本気
その是非はともかくとして、ファンもまた本気だったわけで、その本気を引き出したのも猪木であることは疑いようがない。
そういう意味で言うと、今の新日本も何かにつけて「怒り」になるネタを提供してくる。
今の新日本にも
2022年10月10日に行われた両国大会では、猪木の追悼セレモニーが行われたが、最後に流された「炎のファイター」は、NJPW WORLDでは別曲に差し替えられていた。
同じ有料のCSテレビ朝日ではおそらく「完全版」が流されていたと思われるが、これを皮切りに試合が始まると、通常営業の新日本。
地方用のタイトル
あげく大会途中で、大張社長がリングに上がって、重大発表を行ったのだが、それがテレビ朝日のテレビタイトル設立。
それもタイトルマッチが行われない地方用のベルトという、地方民にとっては本当にどうでもいいものだったのだが、恭しく公開したベルトのデザインが真四角で「超絶ダサい」・・・
いなくなった途端
まるで創始者がいなくなった途端に好き放題仕出したような感じさえして、画面の向こうで久々に怒ってしまった。
おそらくベクトル的には、猪木さんが目指した「怒り」とは別なもののような気がしないでもないのだが、新日本と怒りは今もなおセットになっていることだけは、嫌というほどわかったので、それだけでも収穫だった。