[プロレス] 私的プロレススーパースター烈伝#77 ホースト・ホフマン

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欧州の技巧派

今回は、日本では全日本プロレスなどで、欧州の技巧派レスラーとして、数々の名勝負を残したホースト・ホフマン選手のお話をします。

さすがの私もホフマン選手の全盛期には、まだ会場で生観戦していませんでしたので、世代的には後追いになります。

ロビンソンより強い

ホースト・ホフマン選手は、西ドイツで体育教師を経て、プロレス入りします。

ヨーロッパの各種トーナメントで名を挙げていた時代に注目を集め、「ビル・ロビンソン選手より強い」といわれたほどでした。

やがてホフマン選手は、1972年国際プロレスの招聘によって初来日します。

第四回IWAワールド・シリーズでは、強豪を相手に地味ながら確かなレスリングを披露し、関係者をうならせたそうです。

主戦場を全日本へ

1975年よりAWAの提携先が国際プロレスから全日本プロレスに移行したことを機に、同年12月に開催された全日本のオープン選手権にヨーロッパ・ヘビー級王者として来日し、公式戦の最終戦ではジャイアント馬場さんの優勝戦の相手を務めました。

以降、日本での主戦場を全日本プロレスに移します。

1977年12月には世界オープンタッグ選手権にビル・ロビンソン選手との欧州代表コンビで参加しており、このオープンタッグへの参戦が最後の来日となっています。

現役時代から副業としてドイツでディスコやアパートメントを経営し、アメリカのテキサスにも果樹園を所有していたそうですが、引退後の消息は不明となっています。

幻の新日本参戦

ホフマン選手は、ボー・アンド・アロー・バックブリーカーの開発者としても知られています。

この技の日本における代表的な使い手であるアントニオ猪木さんとの対戦は一度も実現していません。

1974年に新日本プロレスが開催した『第1回ワールドリーグ戦』にホフマン選手は、参加候補選手として名前が挙がっていますが、結局新日本参戦は幻に終わっています。

新日本勢では、藤波辰爾さんが1975年6月、初の海外武者修行で西ドイツに渡った際、対戦していますが、当時はホフマン選手に子供扱いされたといわれています。

緑のロングタイツ

一説によると、三沢光晴さんはホフマン選手を自分の理想的なレスラーの一人としていたそうです。

2代目タイガーマスクから素顔の三沢さんになった際、緑を基調としたロングタイツにしたのも、同じ緑のロングタイツをトレードマークにしていたホフマンに憧れていたからだと言われています。

三沢選手が既に鬼籍に入られ、ホフマン選手自身も消息不明となっているため、真相は藪の中ですが、もし事実なら三沢カラーとして緑を継承しているプロレスリングノアには、何かしらホフマン選手のレスリングも受け継いでもらいたいものですね。

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