プロレススーパースター本列伝・『週プロ』黄金期 熱狂とその正体 活字プロレスとは何だったのか?
内容紹介
「みんなで真剣に本気でプロレスに関わった。
観た! 感じた! 語った! 狂喜乱舞した! 」
(第二代編集長 ターザン山本)『週刊プロレス』、全盛期には公称40万部を誇る怪物雑誌として
多大なる影響力を持っていた。スキャンダラスな誌面、取材拒否など事件の数々……
今だからこそ語れる『週プロ』の真実を当時の記者たちはもちろん、
プロレスラーや団体関係者、鎬を削っていたライバル誌の記者たちの証言をもとに、
インターネットが発達した現在では二度とないであろう活字プロレスという“熱狂”を検証します。眠らない編集部が発信し続け、「業界」を震撼させた“活字”の正体とは
さまざまな形で『週プロ』に関わった21名の証言杉山頴男(初代編集長)/ターザン山本(第二代編集長)/濱部良典(第三代編集長)/
市瀬英俊(元記者)/安西伸一(元記者)/小島和宏(元記者)/
佐久間一彦(第七代編集長)×鈴木健.txt(元記者)/鶴田倉朗(元記者)/
谷川貞治(元格闘技通信編集長・元K-1プロデューサー)/金沢克彦(元週刊ゴング編集長)/
永島勝司(元新日本プロレス取締役)/大仁田厚/宮戸優光、他
活字プロレス全盛期とは?
今回は久々に読書感想文です。取り出だしたるは、「『週プロ』黄金期 熱狂とその正体 活字プロレスとは何だったのか?」。今回は、珍しくプロレスラーの自伝ではありません。主役はプロレスラーではなく、プロレスマスコミであり、プロレスファンです。
そもそも週刊プロレスや、活字プロレス全盛期というのは、今から20年以上前の事になりますから、多少の説明が必要でしょう。かくいう私も活字プロレスに毒されたプロレスジャンキーの生き残りですから、リアルタイムで体験してきた人間の一人として、今回は往時を知らないあなたのために、あの熱にうなされた時代の昔話をしてみたいと思います。
活字プロレスの時代
「『週プロ』黄金期 熱狂とその正体 活字プロレスとは何だったのか?」の中でも再三再四述べられていますが、活字プロレスというものが、一時期隆盛を極めていた時代がありました。はじまりは、今はなきタブロイド紙「週刊ファイト」の名物編集長だった井上義啓氏が打ちだしたものでした。
月刊プロレス(後の週刊プロレス)や月刊ゴング(後の週刊ゴング)らは、東京に本社がある出版社が作っていましたが、週刊ファイトは全国紙とはいえ、本拠は大阪にありました。インターネットがなかった時代に、取材力という意味でも圧倒的に不利だったファイトは、地方発というのを逆手にとって、活字プロレスというスタイルを打ち出しました。
活字プロレスの功績
活字プロレスというのは、ウィキペディアによると、
プロレス報道に関しては、特に初代編集長“I編集長”こと井上義啓の個性が色濃く反映された紙面づくりで知られ、アントニオ猪木及び新日本プロレスを中心に活発な論陣を張った。一般のプロレス専門誌では書けないシュートでスキャンダラスな記事など掲載する一方でプロレスならではのブックやアングルをさらに誇張するような物まで緩急を織り交ぜた記事を掲載した、そのため意図しない記事を掲載されたプロレス団体から取材拒否を通達されることも少なくなかったという。
また、試合の裏の裏まで読むという、井上義啓の記事の書き方は、一名「活字プロレス」と呼ばれるようになった。このスタイルはその後のプロレスマスコミに大きな影響を与えたと言われている(一般には、「活字プロレス」との表現は、ターザン山本による物と思われているが、確立したのは井上義啓であり、ターザン山本もその事は認めている)。ターザン山本(元『週刊プロレス』編集長)、GKこと金沢克彦(元『週刊ゴング』編集長)ら名物プロレス記者を輩出した。
とあります。
活字プロレスとプレッシャー
この活字プロレスを、いい言い方をすれば「尖らせた」、悪くいえば「感想文」にしたのが、週刊プロレス2代目編集長、ターザン山本さんでした。
これは私の持論ですが、活字プロレスの功績は、ネットが未発達な時代に、プロレスファンの熱をうまい具合にすくい上げ、巨大化しました。その最たる例が、専門誌にファンが連載を持つという「週刊プロレス投稿常連会プレッシャー」の存在だったと考えています。私も実は会員の一人で、一応2019年現在も籍だけはあるはずです。
マスコミのファーム
さて、プレッシャーが当時果たしていた役割は、
①活字プロレスの啓蒙
②プロレスマスコミのファーム
③プロレスファンの代弁者
と、だいたいこんな感じだったと思います。では具体的にどういう事だったのか、説明していきましょう。
①についてですが、プレッシャーが連載していたのは、通称「タテオビ」という、雑誌の耳の部分にあたる空欄に、プロレスや選手に対する思いを、ペンネーム込みで200字ちょうどで書き表しておりました。
これは、我々が勝手に週プロに投稿していたわけではなく、週プロ編集部から依頼されて書いていました。ですので、当然「原稿料」が支払われていました。それが会の運転資金になっていたのです。
会社員の傍ら
②についてですが、プレッシャーに入会してくるプロレスファンの中には一定数「プロ志望」の人間がおりました。この「『週プロ』黄金期 熱狂とその正体 活字プロレスとは何だったのか?」に登場している小島記者や、インタビュアーをつとめている堀江ガンツ氏らは、プレッシャーのOBです。
で、このプロ志望者を育てるのに、タテオビで毎週毎週〆切に追われて文章を書くというのが、いい訓練になったのではないかと私は思っています。そう、原稿料をいただく以上、〆切というものが厳密に存在していたのです。
ちなみに私は入会時点ですでに会社員をやっており、プロ志望ではありませんでしたが、糞真面目にタテオビを書いておりました。
週プロにプレッシャーを
原稿料は会に入るもの。でも本業とは別に〆切と格闘する日々・・・。今考えるとよくあんなことを10数年(途中、休会してますが)もやってきたなあと思います。プロ志望でない私には、タテオビの原稿書きは単なる「修業」以外の何物でもなかったですからね。
③は、多少無理があるのですが、ネットが現れる前の一時期、確かにプレッシャーはその役目を果たしていたと思います。実際、会の名前の由来は「週プロにプレッシャーをかける」というものだったらしいですからね。
活字プロレスの終焉
ところが、ターザン山本氏の週プロ編集長解任、活字プロレスの衰退とともに、プレッシャーは逆に週プロからプレッシャーをかけられる存在になっていきました。連載を終えるころには、投稿会員も減ってましたし、そもそも誌面が大型化するにあたって、プレッシャーはタテオビというスペースを追われてしまいます。
それでも連載を続けさせてもらえたのは、温情だったのかなとも思いますが、ネットで個々人がそれぞれスキルを磨けるようになった現代にあっては、プレッシャーの役割は完全に終焉を迎えたといってもいいでしょう。
いちファンのまま
個人的には、あの「修業時代」を経て、文章を書くスピードが急激に早くなりましたし、長文作成が今でも難なくできるのは、間違いなくプレッシャーでの「修業」の日々があったからだと思っています。
入会してくるメンバーの中には「選手や編集部と近しくなれる」と考えて入ってきた人間もいましたし、「プレッシャーで有名になれる」と思っていたものもいたようです。
確かに一時的に関係者や選手と距離が縮まるとうれしいのですが、なんせ一癖も二癖もある人間が跋扈しているプロレス界です。深く知れば知るほど嫌になることも多かったので、個人的にはいちファンのままいられることが幸せだなと、今でも思っています。
遠い日の夢物語
そもそも名が売れたからって、別に生活が激変することもなかったですし、むしろ日陰の花を目指していた私には、ペンネームとはいえ自分の名前が独り歩きしていくのは、苦痛でもありました。ですので、もし「『週プロ』黄金期 熱狂とその正体 活字プロレスとは何だったのか?」があと10年早く出版されていたら、絶対買わなかったと思います。
やっとあの時代の熱狂を俯瞰でみられるくらいに年月がたっただなあと思うと、非常に感慨深いものがありますね。プレッシャー会員やOBで、今でも現役でプロレスに関わっている人は本当に少なくなりました。
まあ、活字プロレスが昔話になったように、プレッシャーの存在もまた遠い日の夢物語になったのかなあ、とこの本を読んでいてしみじみしてしまいました・・・・