1990年代の大阪遠征⑧奇跡のデルイガー降臨
スーパージュニア決勝
私が記憶する限り、獣神サンダー・ライガーがブーイングを浴びた試合というのはそう多くはないはずです。C.T.Uやブラックニュージャパン所属以前になるとずっと少ないはずです。
その数少ない試合とは、1994年6月13日に行われた新日本プロレス主催の第1回のベスト・オブ・ザ・スーパージュニアでの優勝決定戦。
凱旋中の凱旋
対戦相手はスペル・デルフィン。なみいる強豪を蹴散らし、インディローカル団体みちのくプロレスから、優勝戦進出という快挙!そして会場はデルフィンのホームでもある大阪(府立体育館第一競技場=エディオンアリーナ)。
しかも当時はデルフィン自身が府立第一のメインで試合したことがなく、まさに凱旋中の凱旋になったわけです。
大・大・大デルフィンコール
試合開始前から会場は異様な雰囲気に包まれ、デルフィンの入場テーマがかき消されるくらいの大・大・大デルフィンコールで府立第一が揺れんばかり。
ライガーコールが耳で確認できたのは、ライガー自身の入場時くらいで、あとはひたすらデルフィンコール一色でした。
格好良かったけど異様
そうなった原因のひとつは、デルフィンが半分がライガーのコスチューム(通称:デルイガー)で登場したことも大きかったでしょう。
デルフィンのマスクにはツノなどありませんから、府立第一のデカイスクリーンでなくても、肉眼で目視が可能でした。
そもそもベースカラーが半分赤だし、カッコよかったけど、かなり異様な印象はありました。
並々ならぬ覚悟
しかし、それでもデルイガーが大阪の、新日ファンの、プロレスファンのハートを射抜いたのは、デルイガーの出で立ち自体に、スペル・デルフィンの並々ならぬ「覚悟」を感じとったからにほかなりません。
あの当時のデルフィンからすると、明るく楽しく人を食うスタイルで試合をしてましたから、もしかしたら「ライガーをも自分の中に取り込んでやろう」という意識もあったのかもしれません。
デルフィン流リスペクト
私にはやはり長年ジュニアのトップとして、リーダーとして走り続けてきたライガーへのデルフィン流リスペクトがデルイガーという形になって現れたように感じられてならなかったのです。
スペル・デルフィンという普段着を捨てて、デルイガーという一張羅に身をまとった時点で、取り込まれていたのはスペル・デルフィンの方だったように私には思えたのです。
対インディへの姿勢
当時のデルフィンになくて、ライガーには圧倒的に持ち合わせていたもの、それはパワーだったと私は考えてます。
この差は観る側の予想を超えて絶対的な差としてうつりました。
正直メジャーの選手がインディ選手に対して「体の厚みが違う(その分我々はより多くの鍛錬を積んでいる)」という言い方は、当時の私的にあまり好きにはなれないロジックでした。
軽さゆえに・・・
ですが、リング内で対峙したライガーとデルフィンは見ただけであまりに差がありすぎました。見た目だけでいうなら、身体の厚みでしたし、ライガーの技には一発一発に重さもありました。
対してスピードはあるもののデルフィンの技は軽い!その軽さゆえにライガーに致命傷を与えられなかったのです。
あまりの力の差に
あまりの力の差に、しかしそれでも大阪のファンはデルフィンには勝ってほしいと願いながらデルフィンコールを送り、ライガーにはブーイングをしていたのではないでしょうか。
会場にいた私自身もそんな気持ちでデルフィンコールをしてましたしね。
判官贔屓もむなしく
しかし、大方の判官贔屓もむなしく、優勝はライガーとなりました。デルフィンは準優勝ながらあまりに大きな差をつけられることになったのです。
しかしながら、デルフィンはこのシリーズ参戦で広く人気を獲得し、プロレス雑誌の好きなレスラー1位になりました。
それでもやはり私はデルフィン対ライガーは名勝負ではなかったと今でも思っています。
ハーフマスクを定着させた
この大会の観戦後、あまりに強すぎたライガーの姿をして「強ければそれでいいんだ」というタイガーマスクのエンディングが頭の中でループしまくったと、友人諸氏と語り合い、ひとしきり盛り上がったことを覚えています。
確かにライガー対デルフィンは私の中では名勝負じゃなかったと思っています。
しかしハーフマスクという文化を日本のプロレスに定着させたエポックメーキング的試合として歴史にも記憶にも刻まれた試合になったことは間違いないと私は思います。
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