プロレス的音楽徒然草 SAMURAI(越中詩郎のテーマ)
もともとは
今回は、越中詩郎選手のテーマ曲として根強い人気を誇る「SAMURAI」のご紹介です。
元々「SAMURAI」は越中詩郎選手のテーマ曲ではありませんでした。
意外と言えば意外
今でこそ当たり前のように「SAMURAI」=越中選手というイメージが出来上がっていますから、意外と言えば意外な話です。
越中選手は、1979年に全日本プロレスでデビューしました。
メキシコへ遠征
1983年4月22日、ルー・テーズ杯争奪リーグ戦で、三沢光晴選手を破り、メキシコへ遠征します。
この時につけられたリングネームが「サムライシロー」でした。
メキシコ時代ではない
このサムライシローのために作られた入場テーマ曲が「SAMURAI」だったのです。
と言っても「SAMURAI」はメキシコ時代に用意された曲ではありません。
対ムタ戦
越中選手は1985年7月メキシコ遠征中に、新日本プロレスに移籍します。
1990年9月7日、大阪府立体育会館において、越中選手はグレート・ムタ選手の日本での初対戦相手を務めます。
武者修行時代のキャラ
この際に名乗ったのが、メキシコ修行時代の「サムライシロー」でした。
近年でも海外武者修行時代のキャラクターで、凱旋帰国した選手が、国内で試合するケースがありますけど、ムタ対サムライシローは、その先駆けだったわけです。
別人格の認識が
しかし、この頃はまだ「ムタと武藤が別人格である」という認識が、ファンにも選手にも共有されていませんでした。
結果として、ムタ対サムライシローは「武藤対越中」でも変わらないような試合内容になってしまったそうです。
馳戦で開花したムタ
グレートムタ選手がその凶暴性を開花させたのは、1990年9月の対馳浩戦です。
この試合で、馳選手を大流血に追い込んだムタ選手は、以降も対戦相手を流血と毒霧地獄に追い込む凄惨な試合を展開します。
試合巧者として
こうして、「日本版ムタ」は、アメリカ時代とも異なる日本におけるグレート・ムタ像を作り上げたのでした。
一方サムライシローこと越中選手は、新日本移籍後、盛り上がる試合が作れる試合巧者として定着します。
ラフ殺法も
また、反選手会同盟→平成維震軍など、反体制側に属してからは、殺伐とした対抗戦を多く経験しました。
そのため、テクニシャンながらラフ殺法も得意としていました。
いつの間にか
2023年現在サムライシローは、90年のムタ戦以降姿を現していません。
しかし、「SAMURAI」はサムライシローが消えた後も使用され、いつの間にか越中選手のテーマ曲として定着してしまいました。
想定されたキャラではなく
「SAMURAI」はオリジナル楽曲ではあるんですが、想定されていた別キャラではなく、大元の選手の入場テーマ曲になった珍しい例になりました。
その後、越中選手のテーマ曲は何回か変わっていますが、現在は再び「SAMURAI」で入場されているようです。
ジュニア時代のテーマは
ちなみに、越中選手はジュニア時代に使われていた「バイオレント・サタデーのテーマ」については気に入っていなかったそうです。
中学で出会い、擦りきれるほどレコードを聴いたというビートルズマニアの越中選手には、受け入れがたかったのかもしれません。
紆余曲折の人生観
対して「SAMURAI」は反選手会同盟・平成維震軍全盛期に使用していました。
なおかつ越中選手の紆余曲折の人生観を表したような曲調もあり、本人のみならずファンからも高い支持を得ました。
アルバムの一曲
ちなみに「SAMURAI」は、1991年に発売されたアルバム「新日本プロレス ザ・グレート・ムタ」に収録されています。
こちらはHOLD OUTの和テイスト版の「MUTA」(CDバージョン)が初収録されたアルバムで、デビュー戦で縁ができたサムライシローのテーマ曲「SAMURAI」もアルバムの一曲として収録されています。
置き土産
当初はムタ売り出しありきで引っ張り出されたサムライシローも、「SAMURAI」という名曲を置き土産として残しました。
結果的に「SAMURAI」は名曲として認知され、後世に語り継がれたわけですから、何が幸いするかはわからないものです。