プロレス想い出回想録 猪木について考える事は喜びである④闘魂が放つ言葉の魔力
「対世間」への強力な武器
アントニオ猪木の類稀な才能の一つに、言葉の力が挙げられると思う。
ジャイアント馬場が黙して語らずを貫いた事で、現役時代から猪木の言葉は「対世間」への強力な武器になっていたと私は考える。
イズムの流布
その中でも有名なのが「猪木イズム」と「ストロングスタイル」、そして「KING OF SPORTS」になるか、と思う。
イズムなんて単語は、そもそもアントニオ猪木が介在しなければ、世間に流布したかどうかも定かではない。
個人的な記憶を遡っても
猪木イズムが一人歩きしたおかげで、語っていないはずのジャイアント馬場にも「王道」や「馬場イズム」というキャッチフレーズがついて回るようになった。
個人的な記憶を遡っても、生前のジャイアント馬場が「王道」や「馬場イズム」について定義したことはなかったと思う。
「KING OF SPORTS」に関しては
おそらく、馬場の中では「ジャイアント馬場=プロレス」であり、それ以外の定義を必要としなったからではないか?
翻って猪木イズムとストロングスタイルだが、ストロングスタイルはまだしも、猪木イズムとなると猪木自身もはっきりした定義をしていないように思う。
新日本プロレスが標榜している「KING OF SPORTS」に関しては、「Theストロングスタイル」という本の中で、猪木自身がこうコメントしている。
強さを失わずに
新日本プロレスは社章に「KING OF SPORTS」を標示しています。これはプロレスこそスポーツの王者と自負し、それに恥じない実績を示すことを私たちのモットーとするからです
KING OF SPORTSとは強さを失わずに追求する格闘技に冠せられる称号です。
格闘とは人間の本能であり、かつて古代パンクラティオンと言い残されたレスリングは、噛む、眼をえぐることが禁じられた以外、打つ、足を捻る締め付けるなど形式にとらわれない選手の格闘で、どちらか一方がギブアップするまで続けられたものです。
現代に至って関節技を禁じた柔道、寸止めの空手と格闘技が次第に形骸化していく中にあって、一人プロレスだけが力と技と頭を使って動く人間を倒す本物の格闘技であり得るのです。 (中略)
私はかねてからプロレスはあらゆる格闘技の中で最強を世間に訴え、その実績のためにプロレスないばかりでなく一種の一連の異種格闘技者との対戦を行ってきました。
(中略)
プロレスがKING OF SPORTSであるという私の考えは今も変わっていません。そして真の王者になることを私の念願にしています。 (以上「Theストロングスタイル」より)
強さの追求ありき
このように猪木が提唱する「KING OF SPORTS」は、晩年まで変わりはしなかっただろう。
猪木の理想とするプロレスは、あくまで強さの追求ありきのものであり、それこそが「KING OF SPORTS」たるゆえんだろう。
世間は変動していく
しかし、猪木が相手にしていた「世間」とは常に変動していくものである。
その世間を振る向かせるために猪木がやったことすべてが、猪木イズムだし、ストロングスタイルではないかと私は思っている。
言葉に振り回されると
もちろん猪木以外が、猪木イズムやストロングスタイルを掲げても一向にかまわないのだが、その言葉に振り回されすぎると、定義自体がぶれぶれになるだろう。
「世間の空気」を読むことにかけては天才的な嗅覚をもっていたアントニオ猪木だからこそ、猪木イズムやストロングスタイルは支持され、観客は熱狂した。
実行が伴わないと
でも、それはアントニオ猪木だからなしえたことで、ほかのだれかがやったら二番煎じでしかない。
ましてや言葉だけで実行が伴わないと、これらの言葉の力はたちまち形骸化してしまう。
その歴史込みで
新日本プロレスは、その歴史を振り返ると、創業者のアントニオ猪木が絶対出てくる。
新日本にはその歴史込みで、自分たちのやりたいこと、新しいものをみせていかないといけない宿命がある。
魔性の呪い
いっそ看板をかけ替えた方が楽ではあるだろう。実際新日本は、道場から猪木の写真をはずしたことだってあった。
でも、それでも新日本は猪木からは逃げられなかった。
これは今後も新日本を取り巻き続ける闘魂が遺した「魔性の呪い」なのかもしれない。