怒り、苦しみ、破壊し、創造する!世界プロレス式コミュニケーションガイド研究所所長の体験談ブログ(176)自分の問題と向き合うための10の闘い(66)自分の欲求と限界⑥
2017/11/08
若い「つもり」で生きていると
今回は「こじらせおじさん」の話をします。
私は見た目も感性も若い「つもり」で生きている初老のおっさんです。自分のことなんで、実際に若いかどうかの客観的な判断はしかねますが、ここでポイントにしたいのは「若さ」が必ずしも絶対正義ではないということです。
日本には「年相応」という言葉があります。厳密には人間一人一人が違うため、経験値も人それぞれなのが事実です。しかし、大多数が年相応になっていった場合、「年不相応」な人間はどうなるでしょうか?
私の年齢になると、結婚はもとより子育ても終わり、孫がいてもおかしくないこともありえます。実際年下の若いおじいちゃん、おばあちゃんとかはいますからね。ですが年相応ではない私にはこれらの体験がありません。もちろん配偶者や子や孫なんて存在はどこにもいやしません。
もちろん可能であれば今からだってできないことはないでしょうけど、時間的にも体力的にも精神的にも果てしなく厳しいということはいえるでしょう。その覚悟もなしに安易な願望だけ振りまくのもどうなんだろうと、最近は思うようになりました。
ですから、大多数の年相応なコミュニティには所属できませんし、まざっても居場所がないのです。かといって若い感性のまま、若いコミュニティに属してしまうと、今度は自分の老いを実感させられて、孤独感を感じるはめになります。ちまりどちらにも私の居心地のいい居場所というのはないということになりますね。
若い世代と混じる違和感
私の例をお話ししましょう。特に30代前半くらいから私の交友関係は歳下ばかりになりはじめ、気がつくと息子ほどの年齢の人間と一緒に行動していることも珍しくなくなりました。
そして、それをなぜか私は当たり前として受け入れて生きてきました。ですが、彼らには私にある体験の蓄積はありません。若い感性があり、経験も豊富(あくまでオタク界隈に限定されますが)な私は一見すると、若い世代に混じっても何ら問題がないように思えます。
確かに経験値という意味では私には彼らにない手札があるわけです。若い彼らにとっては、「自分らはそんなに興味はないけど、知らない話だし、年長者の話だしとりあえず聞いておこうか」という感じで、一応好意的に私の話は聞いてもらえるわけです。少なからず気を使いながら。
聞いてもらえていると人間気持ちがいいもんで、チヤホヤされている感覚になって、特におじさんなんかますます話したくなるのですが、ここで注意しないといけないのは、「彼らが本当に私の話を求めているのか?」ということです。
想像するに、本気で興味があって聞いている人間は少数派なのではないでしょうか?実際に若い彼らと本当は若くない私との間に「ずれ」がでてくるわけです。同世代なら理解し合える話題や、感覚的な話を、私も知識としては理解できるのですが、全てが腹落ちできているのか、と言われたらそうではありません。かといって、知ったかぶりすれば、こじれるどころの騒ぎでは済まなくなります。
そうしたズレを放置していったせいで、気がつけばコミュニティの中で孤立していることも珍しくはなくなってきたのです。
自覚がなかった「こじらせ」
考えてみれば、10代の頃から一貫してオタク道を邁進し続けている私のような存在はまだまだ少数派です。いや、正確には「年相応」のミッションをこなしつつ、自分の趣味を満喫できている人はたくさんいるわけですが、「年不相応」になるまで血道をあげて、のぼせ上がっている人間はどう考えても少数派になります。
気が付くと「同士」は年下ばかりという構図をいびつだとも気づかずに、「話を聴いてもらえてる」と喜んでいるだけの人を、私はこじらせおじさんと呼んでいます。
私にこじらせおじさんの自覚があるのかどうかという話になってくると、最初は全く気が付いていませんでした。お恥ずかしい話ですが、本当に気が付いたのはここ最近ということになります。
やはり、物事には分相応というものがあります。実は気を使われているだけで、本当は必要とされていないだけという事だってないとはいえないはずです。だとしたら、自分のいびつな人間関係に早く気付いたうえで、周囲に変な気を使わせないようにしたいなとは思いますね。
これはこじらせて長い間生きてきた人間としての、せめてもの自戒でもあるのです。