怒り、苦しみ、破壊し、創造する!世界プロレス式コミュニケーションガイド研究所所長の体験談ブログ(36) 私が博愛主義をキライな10の理由(6)
2016/10/28
私が自分を八方美人と意識しているのは、私だけで実は直接他人からそのような言葉をかけられたことがあるわけではありません。しかし私が私に感じる八方美人という感覚は、あきらかに私にとってはイヤな感覚でした。
世の中にはたくさんの人がいます。その全ての人に好かれようとすることはとても難しいことです。自分のことが好きな人もいれば嫌いだと思う人もいます。それが現実です。
実は八方美人という言葉は「どこから見ても欠点のない美人」という意味で活用されていたそうです。文字どおり美人ですから、女性に対して用いられていたのですね。
しかし、今では「誰にでも丁寧な対応をする人」「どんなことにでも同調してしまう人」というような意味で活用されるようになっているのです。誰にでも丁寧な対応をする人間になることで、周りの人からキライだと思われるようになることもありえますね。
私は、人から何かをお願いされた時に「NO」と断ることで、「嫌われるのではないか」というような不安を抱えている事が多くあります。そしてまた、明らかに間違っていると感じることでも「違うよ」と否定をすることができなかったのです。
似非八方美人は、嫌われることが怖いと思うようになると、「これを言ったら嫌われる」「断ったら嫌われる」となんでも受け入れるようになります。ただ、常に「そうだよね」「自分もそうだと思った」「いいよ」とイエスマンになることで、「この人は無理をしている」「本音を言えない人」だと思われるようになってしまうでしょうね。
本当の自分の意思が伝えられなくなることは非常に苦しいことです。その上、「頼り甲斐のない人」「信頼できない人」というようなマイナスのイメージを持たれるようになっては、本来私が望んでいた万人から好かれる方向とはどんどん遠ざかってしまいます。
ですから、私はむしろ嫌われようと思いました。肉を斬らせて骨を断つではないですが、あまりに自分の身を守ろうとして八方美人を決め込むのではなく、自分自身が心からやりたいことをハッキリ述べることにしたわけです。
それでふと思い当たったのは、私の父のことでした。私の父は私が長男だから家を継げと、物心ついた時から現在まで執拗にいい続けています。それが私の幸せであると信じてやまないのです。ですからハッキリ「家を継ぐ意思はない」ことを口に出していうようにしました。これだけ価値観が多様化している中で自分の価値観が絶対だと思い込んでいる人間に、一言二言口にしたくらいでは簡単に状況は変わらないでしょう。
今後自分の人生を自分らしく生きるために必要なら彼女もできるだろうし、結婚もするでしょう。しかし現在そうなっていないということは、明確に今の私が結婚やおつきあいを必要としていないことを意味しています。ぶっちゃけ掃除以外ならひととおり家事ができるので、実家暮らしとはいえ、誰かに寄生せねばいきていけないわけではありません。着ていく服すら家のどこにあるかもわからず、三度の食事を母に依存し続けている父よりはよほど独立した人間なのです。
父は自分の言うことを聞かない相手には力づくで屈服させようとしてきます。ですから母とも子どもとも折り合いがらよくありません。私はこれまでは黙ってそれを受け入れるだけでした。だから自分らしく生きることができなかったのです。
恫喝する相手には毅然と闘うこと。これをやるためには私が似非博愛主義とは決別しなくてはならなかったのです。