プロレス的発想の転換のすすめ (86) 才能を正しく使う技術
才能の裏表
今回は「才能」についてのお話です。
「才能がある」と聞くと、もしかするとポジティブなイメージを抱くかもしれません。
しかし、物事には必ず表裏があり、才能もまた例外ではありません。
才能のポジティブな面
得意なことならいくらでも突き詰められ、常人ならざる努力も苦にしない。
これはポジティブな才能の使い方だと私は思います。一方で、ブラック企業と知りつつも我慢して仕事を続け、心身ともに疲弊するまで自分を追い込んでしまう。
これはネガティブな才能の使い方と言えるのではないでしょうか。
諸刃の剣となる力
実際に私にはこの両面を経験し、正負の才能が自分にもたらす影響を肌身で感じてきた体験があります。
せっかく授かった才能も、正しく使われなければ自分を傷つける「諸刃の剣」になりうるということを、痛いほど理解しています。
リング上の才能とは
さて、プロレスにおいて「才能を正しく使う」とはどういうことでしょうか。選手であるならば、観客を掌の上で転がす術も一つの才能でしょうし、厳しい練習に耐えて鋼の肉体を作り上げていくことも才能です。
変化を拒む負の才能
一方で、ネガティブな才能の使い方とはどういう形になるのか。
私の事例から考えると「つらいことでも続けられる」というのは、裏を返せば自分と向き合って方向性を変えることを拒絶している状態とも言えます。
要するに、変わらないことで自分が得ている既得権益を手放したくないのです。
現状にしがみつく心
いかに「代わり映えしない」と言われようと、変わることで成長できると分かっていても、今の自分に必死でしがみつこうとする。これこそが「変わらないでいられる才能」の正体ではないでしょうか。しかし、人生は自分さえその気になれば、いくらでも変えることができるのです。
観客の期待との狭間
ですが、プロレスの場合は常に観客の思い入れが重なっていくエンターテインメントであるため、選手の思い描く才能の使い方と、ファンの理想にはズレが生じます。
観客のイメージに寄り添いすぎると自分を見失い、かといって期待を無視し続ければ「闘い」そのものが成り立ちません。
二人のレスラーの苦悩
かつて、その「才能の使い方の狭間」でもがき苦しんでいたのが、今をときめく内藤哲也選手です。
そして鈴木軍のリーダー、鈴木みのる選手もまた、自らの理想とお客さんが求める像の間でもがき苦しんだ歴史があります。
理想と現実の乖離
特に鈴木みのる選手は、若手時代に理想を求めて新日本を離脱し、UWF、藤原組を経てパンクラスを旗揚げしました。
現在はパンクラスミッション所属として活動していますが、今の姿からは想像もつかないほど苦悩した時期があります。
有名なSWSでの対アポロ菅原戦では、理想とは程遠い試合内容に、リング上で涙をこぼしたこともありました。
噛み合わない凡戦の記憶
動画等では「不穏試合」と煽り立てられる鈴木対菅原戦ですが、私にとっては史上最大の凡戦に過ぎません。
プロレスは難しいもので、噛み合わないからこそ面白くなる場合もあれば、噛み合いすぎて凡戦で終わる場合もあります。
「不穏試合」には、名勝負は存在しないというのが私の持論です。
挫折から掴んだ運命
一方、内藤哲也選手は卓越した身体能力で「武藤敬司二世」と称され、20代でのIWGP王座戴冠を公約していました。
しかし、後輩であるオカダ・カズチカ選手の台頭により目標は潰え、何をやっても空回りするループに陥ります。
もがくほどに浴びるブーイング。しかし、逃げるように遠征したメキシコで、彼の運命を変える出会いが待っていました。
制御不能な才能の覚醒
それはロス・インゴベルナブレスという「運動体」との出会いでした。
善玉でも悪玉でもない、自由気ままに型にはまらないスタイル。これを得たことで内藤選手は覚醒し、帰国後に「ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン」を結成。
その後の快進撃は、皆さんもご存知の通りです。
棚橋弘至のあえて選んだ道
ここで、もう一人「才能の使い方」を劇的に変えた人気レスラーを挙げたいと思います。
それは、新日本プロレスを暗黒期から救った棚橋弘至選手です。彼は立命館大学卒というインテリジェンスと、端正なルックスという天賦の才を持っていました。
しかし、当初は「チャラい」と古参ファンから激しいアレルギー反応を示されたのです。
愛を叫ぶという覚悟
かつてのプロレス界は、ストロングスタイルという「殺気」が才能の正解とされる場所でした。
しかし、棚橋選手はその才能をあえて「明るさ」と「愛」に振り切りました。
どんなにブーイングを浴びても、彼は自分を貫き、最後には反対していたファンをも味方につけたのです。
これこそ、自分の持ち合わせている才能を信じ、時代の流れに逆らってでも「正しく」使った最たる例でしょう。
共通する変革の意志
共にヒール的な立ち位置でありながら、絶大な支持を得る内藤選手と鈴木選手。
そして、自らを太陽として定義し続けた棚橋選手。歩んできた道は違えど、彼らは皆、近い着地点に到達したと感じます。
主義主張やプロレス観が異なっていても、彼らの間には「自らの意思で変わることを選んだ」という強い共通項があるのです。
想像で楽しむプロレス
もちろん、本人たちは「一緒にするな」と激怒するかもしれません。
これはあくまで私の仮説に過ぎません。
しかし、第三者として本人の胸の内を勝手に推測して楽しむこと。これこそが「プロレスという闘い」を味わい尽くす醍醐味ではないでしょうか。
邂逅には意味があった
おそらく、歩んできた歴史があまりに異なるため、鈴木みのる選手と内藤哲也選手が最終的に分かり合えることはないでしょう。
しかし、防衛本能として「自分を守るために変わらないこと」を選びがちな人間心理において、あえて過去を捨てて変貌を遂げた二人の魂が触れ合う瞬間には、言葉を超えた共鳴が宿ります。
軍団抗争というフィルターを剥ぎ取り、剥き出しの個人として対峙したとき、その「邂逅には意味があった」と確信させてくれるはずです。
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