プロレス的発想の転換のすすめ(59) 言葉を超えた闘いの形
マイク締めのルーツ
最近でこそ「締めは必ずマイク」という流れが主流になっていますが、もともと日本のプロレスには、マイクで締めると言う習慣自体がありませんでした。
世界では主にWWEがメジャーになり、レスラーがマイクを持つ習慣がいつしか日常になっていった背景があります。
伝説のご唱和から
日本において、私が記憶する限りでは1990年2月10日の新日本プロレス「スーパーファイトIN闘強導夢」のメインイベント、アントニオ猪木&坂口征二 vs 橋本真也&蝶野正洋の一戦で、猪木さんが行った「1・2・3、ダー!」の「ご唱和」が最初だったと記憶しています。
その後、全日本プロレスでラッシャー木村さんのマイクパフォーマンスによって、完全におなじみになったと思われます。
定着したマイク文化
創始者が始めた影響か、試合後のマイクに関しては新日本プロレスでも完全に定着したように思います。
観客もそれがないと物足りないという空気になっているので、どれだけ凄い闘いを見せても、マイクがないと締まらない状態になっています。
対照的な両団体の色
一方、全日本プロレス系は、創始者のジャイアント馬場さんがあくまで猪木さんの挑発を受け流す傾向にありました。
木村さんのマイクも、馬場さんが丁々発止でやり合うというものではなく、あくまで木村さんが一方的に喋っているという体になっていました。
雄弁な新日、沈黙の全日
団体の超初期には、テレビの勝利者インタビューに応える馬場さんの姿を目撃できますが、これはマイクによる締めとはまた別物でしょう。
挑発する新日本系、黙して語らない全日本系と、ここでもカラーがはっきりと分かれているのが面白いところです。
ところが、プロレスの名言が新日本一辺倒かというと、決してそうではありません。
取材記者が繋ぐ言葉
これらは当時のマスコミや記者が普段から取材を重ね、選手と関係性を築き、選手から引き出したものもたくさんあったのだと思います。
2022年の「1・8」対抗戦でも、試合後にNOAHの選手はほとんど語らずに会場を後にしました。
これはNOAHが全日本の系譜に連なることから考えても至極当然と言えますが、ここに異を唱えたマスコミがいました。
沈黙も表現のひとつ
ある記事では「言葉力」の欠如という文言が登場していましたが、ノーコメントも表現のひとつであることを考えると、選手が必ずしも言葉を残していく理由はないのです。
コメントがないのなら、その行間を想像するのもプロレスファンの矜持であり、想像させるのもプロレスラーの技量。そ
う考えると、沈黙を金にできなかったのであれば選手に、沈黙から何かを引き出そうとしなかったのならば、マスコミにも非があると私は考えます。
言葉なき魂の交流
ここでは誰かを悪者にしたいという意図はありません。
ただ、なんでも喋ればいいというわけでもないし、逆に沈黙に意味を持たせられないなら、口を開いてもいいのです。
実際、プロレス界には多くの「名言」が存在しますからね。
ただし、本来のプロレスは、言語が介在しなくても観客が楽しめるエンターテインメントであることは間違いないと私は思っています。
沈黙は金になるか否か
翻って「沈黙は金になるか否か?」という問いをプロレスの文脈で考えるならば、それは観客との「究極の心理戦」に他なりません。
リング上の闘いですべてを語り尽くしたのなら、蛇足な言葉は不要。あえて語らぬことで生まれる「余韻」や「謎」こそが、次回の闘いへの期待値を高める最高の価値(金)を生み出すこともあるのです。
雄弁な叫びも、重みのある沈黙も、どちらもレスラーが命を懸けて選んだ表現。
その沈黙の裏側にある魂の鼓動を読み解くことこそ、プロレスというジャンルの深い醍醐味と言えるのではないでしょうか。
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