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[映画鑑賞記] キック・アス

17年5月17日鑑賞。

デイヴ・リゼウスキ(アーロン・ジョンソン)は、アメリカン・コミックのスーパーヒーローに憧れるギーク少年。誰もヒーローになろうとしないことに疑問をもった彼は、自分で本物のヒーローになろうと思い立ち、ネットで買ったスーツを着てヒーロー活動を開始する。しかし、何のスーパーパワーも持っておらず、訓練もしていない彼はあっさり暴漢に刺された上、車にはねられ病院送りとなる。そのときにスーツを隠す目的で裸になったためにゲイ疑惑が浮上してしまい、それをきっかけに学校一の美少女のケイティ(リンジー・フォンセカ)と接近する。

その後もヒーロー活動を続ける彼は、あるとき3人組に襲われていた男を救い、その模様を撮影していた見物人から名前を尋ねられた際に、自らを"キック・アス”と名乗った。動画はやがてYouTubeにアップされて話題を呼び、さらにデイヴはキック・アス名義のMySpaceアカウントを取得する。(あらすじはウィキペディアより)

 

いきなり私事で恐縮だが、私はヒーローが大好きである。しかし自分がヒーローになりたいと思ったことは一度もない。自己肯定感が低すぎて毎日死ぬことばかり考えていた私には、キック・アスの主人公デイヴになりきって観ることはできなかった。

さて、日本のライトノベル(ラノベ)の世界には通称「なろう系」というジャンルがある。「なろう系」とは…

一般的に「なろう系」の作品は「オタクの「満たされない」欲望を擬似的(安易に)に「満たして」くれる作品」と定義される。具体的には「現代社会で生活する平凡な主人公がファンタジーな異世界に放り込まれ、活躍する」というタイプの作品を指すことが多い。「なろう系」を好む読者の傾向としては「(主人公が)努力すると感情移入ができない」という意見が多いという。(ウィキペディアより抜粋)

キック・アスは広い意味では「なろう系」に含まれると私は思っている。違うのは主人公デイヴがリアルな世界に生きて、リアルな世界に無力なまま放り込まれている点で、このあたりが、作者自身も読者と同床同夢をみている日本のラノベと違う点である。そういう意味では「なろう系」の代表的な例がハリウッドで映画化される予定の「ソードアート・オンライン」なのだが、これをキック・アス的に描いてしまうと問題がある。アメリカが考えるひ弱な少年が勇気だけでヒーローになってしまうと「ソードアート・オンライン」的な世界観は台無しになる。

さて、「キック・アス」といいつつ、劇中でキック・アスがアメコミのヒーローよろしく活躍するかといえば、そうではない。実際に活躍するのは、もと刑事のビッグダディとその娘にして殺人マシンとして英才教育を受けたヒットガール。ある意味必殺仕事人系の裏稼業に近いのだが、アメリカらしくウェットさが微塵もない。同じ仇うちを描いても、キル・ビルとはえらい違いである。

もしここにウェット味を加味したら、キック・アスは多分タランティーノっぽい内容になるだろう。劇中でもタランティーノが絡んだ「シン・シティ」の話題がちらっと出てくる。「キック・アス」には他にもタランティーノを意識したかのような演出がそこかしこに見られるのも特徴的である。例えばキックアスが二刀流なのは、なんとなくだが、シン・シティでデヴォン青木が演じた娼婦街の用心棒で、二刀流の戦闘マシーン・ミホを彷彿とさせるし、ヒットガールが拳銃以上に刃物を使いこなすあたりは、キル・ビルのザ・ブライドのようにも私にはみえる。

ただし「キック・アス」には、タランティーノほどB級への偏執的なまでの愛が感じられないと私は思う。だからこそ、かろうじて一般人でも楽しめるバランスの取れた作品になっている。このあたりはマシュー・ヴォーン監督にどの程度までB級テイストへのこだわりがあったのか、作品をみる限りでは、はっきりとはわからない。しかし、もしもマシュー・ヴォーン監督にタランティーノの世界観に憧れがあったとしたならば、その割に「キック、アス」はやや薄味だと私は思っている。このあたり主人公デイヴに「なりたかったけどなれない」自身の姿をマシュー・ヴォーン監督が投影していたのだと推察すると、それはそれで、個人的に大変興味深い。

「キック・アス」は、コミカルな面と、凄惨な殺しの場面のバランスがかなり危うい感じで成り立っているので、ヒットガールが実質的に主演化した続編が微妙な評判になっているのは、ある意味当然かもしれない。殺しとコミカルのバランスどりは、せいぜいやって一本が限界かもしれない。お手本?のタランティーノ作「キル・ビル」もパート2は復讐に偏った分、微妙な感じの内容だったと私は感じた。かようにB級テイストというのはさじ加減の難しい代物なのだ。

日本の場合、主人公が無双すぎると、例えゲームやファンタジーの世界の話であったとしても、ファンがそっぽを向く傾向がある。個人的には「ソードアート・オンライン」の主人公キリトの無双な主人公感に違和感しか感じないのである。しかし、アメリカは主人公がリアルにめざめてもあまり気にはならないらしい。

こういう時だけカウンセラー目線でみるのもどうかと私は思うが、主人公がゲイのふりして(悪気はないのだが)目当ての女の子に近づく描写は、LGBTの人権が啓蒙された現代では、まずリテイク必至の微妙な演出と言わざるをえない。アメリカは人権意識では世界の最先端をいきながら、片方では差別意識をかくそうともしない。これがかの大国の大いなる矛盾点である。

まあ、とはいいながら、日本のアニメのヒーローに憧れたのであれば、かなり違和感があるものの、キック・アスの場合、元がアメコミだから、仕方ないと許せる部分もたくさんある。国や文化が違うとヒーローへの憧れも変わる。そういう点では2017年夏公開の、東映発ハリウッド制作で逆輸入される「ハリウッド版スーパー戦隊」こと、パワーレンジャーがどうなるのか、私的には非常に気にはなるところなのである。

ちなみにパワーレンジャーでは主人公のメンバーの中にLGBTの当事者がいる設定になっているそうである。わすか数年ではあるが、キック・アスの演出が許された?時代もまた過去になりつつあるのだ。






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