私的プロレススーパースター烈伝#2 バッドニュース・アレン
ラフ良しテクニック良しのヒール
今回はモントリオールオリンピック柔道重量級銅メダリストという肩書をもつバッドニュースアレン選手です。
バッドニュース・ブラウン(Bad News Brown)またはバッドニュース・アレン(Bad News Allen)のリングネームで、新日本プロレス、WWF、カルガリー地区などを主戦場に、ラフ良しテクニック良しのヒールとして活躍しました。
「格闘技世界一決定戦」に初来日
アレン選手は、AAUの柔道選手権重量級で5度優勝し、1975年にパン・アメリカン王者となったのち、1976年モントリオールオリンピックに出場、柔道重量級で銅メダルを獲得しています。
1977年10月25日、新日本プロレスの「格闘技世界一決定戦」に初来日。坂口征二さんと柔道ジャケットマッチを行うものの敗退します。
練習生として入門
アレン選手は、新日本プロレスの練習生として入門していますが、今の青い目のヤングライオンたちの「さきがけ」といっていい存在です。そしてバッファロー・アレンのリングネームでプロレスラーに転向しました。
1979年に本名のアレン・コージ名義でWWFを短期間サーキットした際、フレッド・ブラッシーをマネージャーに迎えてヒール修行を行っています。
名脇役として活躍
1980年より、髪をスキンヘッドにしてバッドニュース・アレンと改名し、ラフファイト主体のヒールに変貌し、以降1987年まで新日本プロレスに連続参戦します。
プロレスに適応できなかった同じ柔道出身のウィリアム・ルスカさんとは対照的に、シリーズに欠かせない名脇役として活躍しました。主にタッグマッチに才能を発揮し、新日本の歴代エース外国人のパートナーを務めました。
黒人差別を激しく嫌悪
アレン選手は喧嘩の強さはレスラー仲間からも一目置かれていました。
ダイナマイト・キッド選手が犬猿のルージョー兄弟に闇討ちされた際、キッドの親友であるアレン選手が騒ぎに気づいて現れると、ルージョー兄弟は一目散に逃げ出したといいます。
また、黒人差別を激しく嫌悪し、差別的な発言をしたアンドレ・ザ・ジャイアント選手をホテルの屋上へ連れ出し「謝らなければここから突き落とす」と脅しをかけたという逸話を残しているほどです。