プロレス的発想の転換のすすめ(25) 道
今回は「道」のお話です。
道といえば「迷わず行けよ、行けばわかるさ!」でおなじみのアントニオ猪木さんがでてきます。
「道」の詩に関しては清沢哲夫(のちの暁烏哲夫)氏の詩「道」が該当の詩で、一般的に言われている一休禅師の言葉ではないようです(この詩は、初出「同帰」第335号(昭和26年10月1日発行に収録されているそうです) 。
さて、この詩を猪木さんが口にし出してもうかなりになりますが、実際迷わずいける道ってそうそうはないと私は思っています。
でも「道」という詩は「人が作った道にとりあえず一歩、踏み出しさえすればあとはなんとかなる」というものではなく、「自分が行く先に道を作っていくことで、迷わない道ができる」ということとも解釈できます。
猪木さんのイメージからするとインスピレーション優先で、むやみやたらに一歩を踏み出しまくって「どうってことねえよ」と開き直る感じがするのかなと思います。
私もどっちかというとそっちの方が猪木さんっぽい気がします。
しかし、そうした猪木さんに対する我々の先入観を外していかないと、この詩の本質的なものは理解できないような気がします。
インスピレーションで動く直感型の猪木さんが何を思って道という詩を繰り返して口にしているのか?
たぶん理屈でない何か本質的なものを察していて、それを道という詩の形に変えて、伝えようとしているのかもしれません。
あるいはもっと直感的に「そうした方がおもしろいだろ?」といいたのかもしれません。
こちらの決めつけをいったん横に置いて、猪木さんになったつもりになって想像してみると、自分が色眼鏡で見ていた部分に気付くことが多くあるのではないかと思います。
上で書いたような、「インスピレーション優先で、むやみやたらに一歩を踏み出しまくって「どうってことねえよ」と開き直る感じ」というのが、まさに私の中のアントニオ猪木像であり、自分の色眼鏡で見た決めつけの産物なわけです。
しかし、猪木さんになって考えてみるというのは結構重要なことです。
なぜなら自分の決めつけにも気づけるのと同様に、相手の意図も汲み取ろうとすることで、もしかしたら自分の思い込みが邪魔をしていることに気付けるかもしれないからです。
その気づきを繰り返すことで、はじめて迷わずいける道ができていくのかなと私は考えています。