[プロレスコラム] プロレス想い出回想録 我が青春の投稿常連会プレッシャー①出会いと入会まで

[プロレスコラム]プロレス想い出回想録

プレッシャーとは?

かつて、週刊プロレスには「投稿常連会」なるグループがあり、誌面の片隅に連載を持っていた。

その事実を知るファンはほぼほぼ四十代半ば〜五十代は超えているはずなんで、今の週プロ読者には全く刺さらない話ではある。

投稿常連会の正式名称は、「週刊プロレス投稿常連会プレッシャー」。以下、プレッシャーのサイトより抜粋・転載。

今も現存している

週刊プロレス100号を記念して読者に対し企画を募集した際に、現在の「あぶない木曜日」の前身であった「読者のワッ」や「読者のリング」の常連が集まり、「常連会」の設立を提案。

週プロが了承して1985年6月に会発足となった。

「プレッシャー」の名の由来は、“プロレス界にプレッシャー(圧力)をかけられるような集団・FCになろう”という意気込みによるものです…。

実は週プロと縁が切れたあとも「(旧)週刊プロレス投稿常連会」と名前を変えて、プレッシャーは、今も現存している。

私が知る限りの歴史

私もごく初期はプレッシャーのブログに投稿していたのだが、ログインIDとパスワード忘れたせいで、現在は見るだけになっている。ちなみに籍は抜いてないので、形式上は現役のプレッシャー会員である。

そんなプレッシャーという存在が過去の遺物になり、プロレスファンの記憶からも消されていくにはあまりに忍びなく、僭越ながら、私が知る限りの歴史を書き残して、後世に伝えたらと思い、駄文を連ねる次第である。

実はコミュ障

さて、私の入会は1992年。プレッシャー発足後、随分時間が経過しているのだが、これには理由がある。

私は学生時代、今でいうところの「コミュ障」であった。大学時代は授業以外はひたすら下宿に籠り、マンガばかりを描いて商業誌に投稿していた。

だが、コミュニケーションが下手だからこそ、人一倍仲間が欲しい気持ちはあったわけで、プレッシャーに入りたい気持ちは80年代からあった。

入会後、常連になった

私が当時投稿していたのは、一般マンガ雑誌で週刊プロレスではなかった。後年、プレッシャー内でも、読者コーナーでも、私はいっぱしの常連になるのだが、それは入会後の話である。

つまり、私は入会時点では、どこにでもいるいちプロレスファンにすぎなかったのである。

実は私が入会した92年当時、プレッシャーには「入会テスト」なるものが存在していた(後年、入会テストは廃止された)。

入会テスト

テストとは、タテオビと称する文章を規定推数書いて提出するもの。以下、プレッシャーホームページより抜粋。

180字~200字(ペンネーム含む)内で書かれる。内容に制限はほとんどない。
1003号までは週プロ・ページ端のスペースである「タテオビ」に掲載されていため、通称タテオビと呼んでいます。

なんで、こんなテストがあったのか?私が想像するに、入会したはいいけど「書き続ける」書き手がだんだんいなくなったためではないか?と思う。

毎週の締め切り

いうまでもなく、週刊プロレスは週刊誌なわけで、そこに掲載されるタテオビにも、毎週締め切りがくるわけである。

それを毎週毎週欠かさず、ひたすら休みなしで文章書き続けるというのは、なかなかハードワークであった。

ましてや、文章を本業にしているわけでもない素人が、仕事しながら文章を書き続けるというのは、なかなかクレイジーな所業でもあった。

あの時の無茶が・・・

ちなみに掲載料は当初会の運営資金になっていたため、私の手元には一銭も入らなかった。こんなクレイジーな事を続けられたのも、若気の至りというやつかもしれない。

今なら絶対、無理だと思うが、あの時の無茶が現在、いろんな駄文書きに役立っている事を考えると、入門時にひたすら基礎を繰り返し、汗が床に溜まるほど練習させられるプロレスラーのタマゴたちの気持ちが、今ならほんの少しだけわかるような気がするのだ。

プロレス想い出回想録
プロレス“ザ・モンスター”ハラダが自らの体験を赤裸々に綴った回想録記事です。長い期間プロレスを見てきた彼が抱えてきた出会いと別れ、予想外の悲しみ、そして「楽になりたい」という想いとは?彼が「書く」ことで得た救いとは何だったのか?感動必至の一...






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