かつてプロレス少年だった
今回は夏の神宮で、見事にIWGP二冠王者に返り咲いた内藤哲也選手のご紹介です。幼い頃より新日ファンだった内藤選手は、学生時代から、アニマル浜口ジムでトレーニングを積み、新日入門から半年後の2006年5月27日、草加市スポーツ健康都市記念体育館大会にてデビューを飾ります。
内藤選手は。アマチュアで特に大きな実績があっての入団ではない一若手のデビューとしては、かなりのスピードでのデビューでしたが、ここから苦難の道を歩み出します。
海外遠征後は、本隊の一員として活動していましたが、4月4日後楽園大会で高橋と共にCHAOSへと寝返り、ヒールとして活動を開始します。
度重なる怪我
高橋裕二郎選手とのタッグ「ノーリミット」でも活躍しますが、2011年26日後楽園大会の試合中にパートナーの高橋と田中に裏切られ、試合後に入ってきた邪道、外道にも袋叩きに遭い、内藤選手はCHAOSから追放されてしまいます。
同時にNO LIMITも解散となりました。2012年8月7日、仙台サンプラザホール大会にてG1公式リーグ戦の、ジャーマン・スープレックスを着地した際、古傷の右膝靭帯を痛めてしまい、担架で運ばれました。
内藤選手は、右膝を負傷してからも試合には出場し続けましたが、本調子には程遠く、10月8日、高橋裕二郎選手から右膝を椅子で殴打され戦線離脱し長期欠場となってしまいます。
CHAOS追放後、なんとなく本隊にいた内藤選手に転機が訪れます。内藤選手は、2015年5月23日、約4年ぶりにメキシコのCMLLに遠征します。
ロスインゴ後の躍進
ここでなにかを持ち帰らなかったら浮上の目はないと覚悟し、現地で親交のあるラ・ソンブラやルーシュらが立ち上げたユニット、ロス・インゴベルナブレス(Los Ingobernables)に加入します。
6月26日に凱旋すると、内藤選手は、入場時にロス・インゴベルナブレスのキャップ・Tシャツを着用しながら入場するようになり、タッグマッチでは本隊勢と組みながらも連携を成立させず不穏な行動を起こし、試合もふてぶてしい表情を浮かべながら、のらりくらりとしたスタイルに変化していきます。
11月21日後楽園大会にて、新たに長期欠場中のBUSHIをロス・インゴベルナブレスに引き入れると、翌22日豊橋大会にて本家との差別化を図るため、EVIL、BUSHIらと共に、ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン(Los Ingobernables de Japón、略称 : L・I・J)として正式にユニット化します。
CHAOS追放からロスインゴ初期までは、ブーイングの多かった内藤選手ですが、それを声援に変えてきたのが、現在の姿です。二冠はその象徴かもしれないですね。