老害プヲタ・プロレス“ザ・モンスター”ハラダの発想の転換のすすめ#59 何もしない事とプロレス
忙しいほど充実している
今回は何もしない事とプロレスの話です。
いきなり私事ですが、ガンになる前は、とにかく空いた時間にひたすら予定を詰め込んでいました。
要するに暇な時間というものが私にはありませんでした。「忙しければ忙しいほど、充実している」そう思い込んでいました。
楽になりたい
これは、15年ほど前に心を病んだ時も顕著でした。もう身体が悲鳴をあげて、動く事もままならなかったにも関わらず、インプットし続けました。
しかし、昨年ふと「楽になりたい」という身体の声に素直になり、そのまま何もしないで過ごしてみました。
最初は非常に居心地が悪かったのですが、何もしない状態に身を置くと、はじめて自分の心身から力が抜けていきました。
いかに普段から無駄に力んで生活してきたか、思い知らされたのです。
手数の多い試合をしがち
プロレス技でも力んでいると、どんどん袋小路にはまり、脱出が難しくなります。そこから力を抜いてうまく脱出していくのも技術のひとつですね。
若いうちは、引き出しを増やす意味でも、色んな技にチャレンジするのは悪くないと思います。
ですから、選手としてキャリアが浅いとどうしても手数の多い試合をしがちになってきます。
足し算のプロレス
でも、プロレスラーって年齢を経ていくにしたがって、どんどん出してくる技の数少なくなってるんですね。
これはレジェンドの選手に特徴的なところではあるんですけれども、若手の頃っていうのは、基礎の部分に積み重ねた派手な技っていうのを、どんどんどんどん足していく感じがします。
私はこれを足し算のプロレスと思ってみています。
よりシンプルで奥深いものに
若いうちは、足し算のプロレスをやれる体力もあるし、実際にやりたくなるんじゃないかな?というふうに考えてるんですよ。
でも年齢を経ていくにしたがって、だんだん余分なものを、そぎ落としていく感覚っていうのが、たぶん楽しくなってくるんじゃないかな?と思うんですよね。
私もそ足し算が楽しいなぁと思ってた時期があるんですけれども、年齢を経ていくにしたがって、よりシンプルで奥の深いものに、惹かれるようになっていたんですよ。
必要なものだけを残す
たとえば、アントニオ猪木選手対大木金太郎選手の試合なんて、バックドロップと大木さんの頭突きだけで、試合ができていたんです。
にもかかわらず、猪木対大木戦は、ものすごい試合だったんです。
このように本当にいらないものを、削ぎ落として、削ぎ落として、削ぎ落として、必要なものだけを残す。
これぞ、引き算のプロレスなんですね。
引き算のプロレス
年齢とともに体力もおちてきますので、その落ちてくる体力をカバーするには、どうしたらいいかっていうのを、レジェンドも考えられていたと思うんですね。
そう考えていくと足し算のプロレスは、若い時にしかできないんだと思います。
その足し算のプロレスを、やめていくことによって、引き算のプロレスは、生み出されていくものなんじゃないかな?という風に思うのです。
無駄なことをしてるんじゃないか
そう考えると、どっちが良い悪い、ということはないんですけれど、引き算のプロレスっていうのを人生に当てはめると、まだまだ無駄なものが、あるんじゃないかな?
自分の中でも無駄なことをしてるんじゃないかな?という風に思うこともあります。
プロレス初心者だった時代では、ちょっと理解できなかったかな?という風にも思うんですね。
人生に生かすことで
こうして考えると、年を取るということは、決して悪いことばっかりではないなあ、というふうに思うんですね。
年齢にあった考え方だったり、所作だったりを、日常生活で、できるようになれたら、なおいいんじゃないかな、という風に思うんですね。
そんな感じで、プロレスを、自分の人生に生かすことができるようになれたら、またちょっと違った風景が見えてくるんじゃないかなって思ったりもしております。