怒り、苦しみ、破壊し、創造する!世界プロレス式コミュニケーションガイド研究所所長の体験談ブログ(208) 最終章「引き算の生き方」⑤
2018/08/27
テレビ。新聞を見ない3つの理由
長い間続けてきた当ブログの役割もそろそろ終盤に向かいつつあります。最後はここまで気づいてきたことで、私の何が変わり、どこへ向かおうとしているのか?そして、最近私が提唱している「引き算の生き方」とは何かを可能な限り説明したいと思います。
現在やっている一人暮らしについては以前も経験があるので、人生2度目になります。大学時代は一応受信料払ってテレビみて、新聞もとってみておりました。
現在はどちらにもお金を払っておりません。そもそもテレビ受像機すらありませんからね。昔は自他共に認めるテレビっ子だった私がどうしてこうなってしまったのでしょうか?
①テレビ・新聞がつまらなくなった
②テレビ・新聞を観る習慣がなくなった
③公式のネット配信が充実してきた
という三つの理由を考えてみました。
テレビと新聞を生活から引き算した
①については元々実家が地上波が映りにくい場所にあり、視聴習慣を早くからBS中心に切り替えていました。そのせいか?地デジ化で難視聴地域でも地上波が見られるようになったあたりから、特定の番組以外はだんだん見なくなりはじめました。難視聴地域だった頃は、ほぼ砂嵐状態のUHF局すら必死になって見ていた私が変われば変わるものです。
②は①や③と連動しているのですが、ネットオリジナルで面白い番組が増えてしまうと、やはり比重はテレビよりネットになります。BSは実家でまだかろうじてみてますが、地上波はほぼみていません。新聞も然りで、紙の束というのはゴミとしては場所もとるし、何より重いわけです。
しかも近年広告の占める割合が年々増えてきて、読みものとしての魅力も失いつつあります。学生時代ならまだしも社会人になり、これだけネットが発達してしまうと、メリットよりデメリットの方が大きくなってしまったのも、一因ですね。
③はかつては海賊版がはびこる場だったネットに公式が相次いで参入してきたことによって、ネットで観るストレスを以前ほど感じなくなったというのも大きいと思います。配信内容もBSと大差ないし、ネットなら見られる番組も増えました。もはや砂の嵐を耐え忍ぶ時代は終わったのです。以上のように考えていくと、テレビと新聞は私の生活から引き算できたのもある意味当然の帰結といえるでしょうね。
次は多幸感の問題
まあ、これはほんの一例にすぎません。最近、私は自己否定はしなくなったし、他人と自分の問題を混同しない客観性は養われたと思ってます。以前に比べると、自己肯定感も育ったという実感もあります。
では、次に考えるべきは多幸感の問題になるかなと思っています。いわば土台の上に家を建てる作業。それは自分が主役になる事。今まで傍観者として生きてきた自分が、自分の人生の主役になる事を受け入れて初めて自分らしい人生を生きられるからです。
私がやっているヨガもカウンセリングも万能ではありません。医師の診断で病名がついてしまうと、まず服薬ありきの治療が必要にはなります。第三者による、劇的な変化が遂げられる魔法などこの世には存在していませんからね。自分が他人を変えられないように、他人も自分を変えられません。自分を変えられるのは、この世で自分しかいないのです。
だから、私は私を変え続けてここまでたどり着いたということですね。そういう意味では土台の上に少しずつ何かを建てられている感覚があるのです。