怒り、苦しみ、破壊し、創造する!世界プロレス式コミュニケーションガイド研究所所長の体験談ブログ(111) 自分の問題と向き合うための10の闘い(1) シェアに対する不快感 ①
2017/03/10
今回からしばらく私の中にあるシェアに対する不快感と向き合ってみようと思います。
私には悪いクセがあります。安易に人を信用しすぎて大切なものを貸してしまうクセ、そして貸したものを失くされてしまうクセです。借りたものの中にはお金も含まれます。
先日も貸した本を失くされてしまいました。失くすこと自体は当然失くした人間に過失がありますし、その度に温厚な私でも怒ります。失くした相手を許すことは多分私が生きている限りありません。大概失くした相手は、よくて謝るだけで済ませて、弁償までしようともしないからです。最悪失くしてもウソを突き通してシラを切るというパターンも少なくありません。
しかしながら、同じことを繰り返してしまう自分の中に何か問題はないのだろうか?そこを考えてみようと思い立ちました。
まず私の行動パターンを振りかえってみましょう。知り合った相手と話をして、ある程度会話が弾みます。会話が弾むと「もっと会話を続けたい」と思い「相手の歓心をひくため」に、自分の大切にしているものを差し出してしまうわけです。
しかしながら、私の話に対して相手が同じ熱量で応えるかどうかは相手に選択権があるわけです。会話が弾むからといって安易に距離を縮めようとすること自体が私の問題のようです。
さて、借りたものを返さないいわゆる「借りパク」する人というのは、こうして相手が心を許すタイミングを無意識レベルで待っているわけです。そして見事に私のような人間をカモにして、自分だけが利を得るわけです。こうした人間は得てして「借りたこと」に対しての責任感も罪悪感も元々薄いし、他人の財産を尊ぶ気持ちも少ないのではないかと私は思っています。
では貸したい私がとる自衛策とはなんでしょうか?具体的には「貸さない」こと、「他人を安易に信用しない」ことなどが考えられます。ひとつ気をつけたいのは、「世の中は借りパクする人間ばかりではない」という事実を忘れないことです。その上で相手をよく見極めた上で貸し借りができるくらいの信頼関係を築いた上で、初めてシェアをする…と、
ここまで分かっていながらついつい同じことを繰り返してきている私がいうのもなんですが、人を信じるタイミングを測れない今の自分を赦すところに最大のポイントがあるように私は思います。
なぜなら、人は急激には変わることができないからです。長年の習慣ならなおさらです。であるならば、できてない今の自分を責めるより、できている部分に焦点をあてて少しでも変われていたなら、そこを認めた方がより建設的ですよね。
ただ相手を許すか許さないかは私に選択権があります。つまんないことには関わり合いたくありませんから、許すか許さないか以前に、借りパクした人間を私が再び信じることは金輪際ないと思います。もちろん再び会うこともないでしょう。私は聖人君子ではありませんからね。