怒り、苦しみ、破壊し、創造する!世界プロレス式コミュニケーションガイド研究所所長の体験談ブログ(80) 私が古事記をキライな10の理由(10)
2017/01/25
古事記に触れて今年私が知ったこと。それは自分の中にある集団への嫌悪感でした。今までの私には組織ありきで個人があり、フォアザチームこそが美徳であるという思い込みを抱いて生きてきました。
一方では、属することへの嫌悪感を感じていたはずなんですが、それをなかったことにしてやり過ごしてきたために、モヤモヤしたものを抱えたまま、今日まで生きてきました。
多分集団に属することへの嫌悪は親戚に抱いていた嫌悪感と繋がっていたと私は思いますし、そもそもどこにも属せていない感じは小学生の時から感じていて、仲良しグループとかにも入れず、常に班割りすれば余る側にいる、いわば「ぼっちの中のぼっち」といえる存在でした。
そんな具合に誰ともつるむことなく、常に孤独で友達もいない自分を私は長年責め続けておりました。人と仲良くなれない自分には価値がないと思い込んでいたため、何とか友達を増やそうと他人に合わせ、自分を殺してきました。
そして今年私は人に好かれるのをやめました。それから半年で私は人が好きなものを好きになることをやめられたのです。人の好きなものを私が好きになっても、人が私を好いてくれるかどうかは別な問題なのです。
ならば私が他人の好きを共有する必要もないはずです。松江の親戚に嫌悪感があったのは、我々が好きなものはお前も好きにならなければならない、という有無を言わさぬ同調圧力のせいだったのです。
しかし、その同調圧力に私は「NO」ということができませんでした。一人になるのが怖かったからです。でも実態はチームになろうがぼっちになろうが私は生きています。仲間がいようといまいと、繋がろうと離れようと自由です。これこそが私の長年探し求めてきたものだったのです。
つかずはなれずという言葉があります。ちょうどよい距離感というのはべタベタしすぎず、かといって完全に孤独にもならずといった感じでしょうか?いつも群れていると集団の輪に自分を合わせがちになってしまいます。それもいいのですが、いつもそうだと疲れてしまいます。人とのちょうどいい距離感を守るためなら「NO」はいってもいいんだというのが、今回私が導き出した結論だったのです。