怒り、苦しみ、破壊し、創造する!世界プロレス式コミュニケーションガイド研究所所長の体験談ブログ(79) 私が古事記をキライな10の理由(9)
2017/01/25
私は基本的にほぼ偏食のない子どもでした。チーズとチョコレートだけは受付けませんでしたが、大人になって食べられるようになりました。それは一面ではよいことなんですが、一方では趣味嗜好や人間関係に関しても「イヤなものはイヤだ!」と言えない人間になっていたのです。つまり「自分にキライなものはない」という思い込みを長い間していたわけです。
実は食べ物に限らず好きなもの、キライなものはあっていいはずなんです。ましてや一人で抱え込むには時間も限られています。個人のキャパを超える情報はむしろ取捨選択して自ら削除していく必要性も感じています。
しかし、長年の生活習慣から、いまだに様々な情報や知識が洪水のようになだれ込んでくるよう自分が自分に課したため、もはやどこかでセーブしないと自分が苦しくなる一方なのですね。
最近になってやっと「忘れる」ことができるようになりました。これまで忘れるということにはネガティヴなイメージしかありませんでした。「覚えられない」とか「約束を守れない」など。しかし、覚えてばかりだと脳みそがパンパンになります。パソコンなら記憶残量を表示してくれますが、人間の脳はそこまで便利ではありません。「覚える」ことに関しては自分自身で調節していかなければなりません。
仮にやりたいことがあったとしても限られた中でいかにしてやりくりしていくか?今すぐでなくてもよかったり、あるいは今必要と感じなかった場合などは、優先順位を繰り下げるなどの工夫は必要になりますね。
今年になって何度か古事記に触れる機会があったのは、私の中にある未解決の問題があることを知らせてくれました。しかし同時に「今は古事記に親しむには早い」ということも教えてくれました。私はこの問題をなかったかのようにしてしまうと、自分の中に不快感が貯まっていき、やがて爆発します。この心の仕組みを理解しているからこそ「なんでも体験ありき」という自分のパターンにも気づき、自分の中にある問題にも気が付けたのです。なんでも受け入れてなんでも興味を持つというのは悪いことではないのですが、別な面から考えると、「人に任せられないからなんでも自分でやってしまおう」あるいは「人に任せるのが不安だから自分の中身をスキルだらけにしてしまう」ことでもあります。
本当はできないことがあってもいいし、実際自分だけではできないことが世の中にはたくさんあります。そんな中「人の助けを借りない」「人に迷惑をかけたくない」という私の強い信念はいまだに時折邪魔をしに出てきます。チームとか和とか集団に対する私の嫌悪感は依然根強いものがあります。でもそういう感覚が自分の中にあるんだということを認めて受け入れていられる今の自分は、自分の存在を認められています。子ども時代におよばれした誕生会の席からいなくなった時には、「自分はここにいてはいけない」感覚が強くあったため、一人になっても不快な気持ちにしかなりませんでした。でも今は一人でいても不快になることはありません。なぜならチームでいてもいいし、一人でいてもいい、それが自分の理想とする立ち位置であることを、私自身が理解しているからなのです。