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怒り、苦しみ、破壊し、創造する!世界プロレス式コミュニケーションガイド研究所所長の体験談ブログ(71)私が古事記をキライな10の理由(1)

2017/01/25

このキライシリーズを書き始めてもうまもなく半年が経過します。半年もやってるとほとんど言いがかりに近いような毒突きをした時もありました。ですが、今回の古事記に関しては明確に嫌いになった理由があるのです。自分が能動的に興味を持ったことではなく、半ば強制であったという点に、古事記との不幸な出会いがあったと私は考えています。

私の母の里は島根県松江市です。いうまでもなく神話の郷ですよね。当たり前のように神話の文化が根付いています。山口県に維新の文化があるのと同じようなものです。隣県でありながら趣は全く異にする両県ですが、母が里帰りするたびに松江に連れていかれるのが幼少期の私にとっては苦痛でしかありませんでした。松江の親戚というのはとにかく同調圧力が強く、自分たちの常識は社会全体の常識だと思い込んでいるような人たちでした。ですから、基本そこからはずれると仲間はずれにされるんですね。もちろん神話の話は知っていて当たり前。知らない人間は人間じゃないみたいな扱いを受けていました。

だから神話というのは半ば強制的に覚えこまされたといってもいいのです。正直出会いが違っていたら、もしかするととても興味をもったかもしれませんが、自分的には古事記=苦痛というイメージがどうしても抜けなくて、いまだに手を焼いています。

古事記で有名な天照大神が天の岩戸に閉じこもってしまう話がありますが、確かに天照さまがいないと世の中真っ暗だし、困るよねというのはわかるんですけど、どっちかというと外へ出るより引きこもる習性が強い私にしてみたら、岩戸の外に出させようという行為自体があまり好きでないというか、閉じこもりたかったら閉じこもらせてやれよとさえ思うわけです。なんか岩戸の前で興味をひいて、騒いでいくというあたりにもあまりいい感じがしないんですよね。なんで皆のために「ひきこもり」を外に出そうとしているのか?私的にはどうしてもしっくりこなオチなんですよね。もっともこんな話を書いていることが親戚にばれたら、たちどころに怒られるでしょうけどね。

さて小学校時代の私は、皆が外で遊ぶ中一人で遊ぶ子でした。外より自分の世界の方に関心があったし、外の世界がそれほど素晴らしいとは思えなかったのです。

でも外で遊ぶ子が多数派になると、私は外に無理やり出さられることになりました。それは苦痛でしかなかったのです。同じように松江の親戚たちの中に、同族として混じるのも違和感がありすぎました。

古事記は物語ですから、引きこもりの神様を許容しては物語にならないのもわかります。しかし和を尊ぶあまりに、個の自由をないがしろにするのはあまり感心しないなと思うのです。確かに引きこもってばかりいてもあまりいいことはないと私も思います。

カウンセリングを長年受け続ける中で、松江での体験はトラウマに近いものがあって、これを軽くしていくのは相当苦労しました。でも時折フラッシュバックのようによみがえる感覚が松江に行くたびに今もあったりします。古事記に対しては本当に一時期は見るのも嫌だったくらい自分の中では遠ざけていたのですが、最近になって自分から古事記の世界に飛び込んでみようといろいろなゼミにも参加してみました。大人になって許容できるところとそうでないところがあったりもしますが、まだ違和感が完全に払しょくされたとは言い難いなというのが今のところの私の感想です。

今回は、自分の中にある過去に感じた古事記への嫌悪感と今感じている違和感とを同時に向き合って、自分が本当はどうしたいのかというところを明らかにしたいと考えています。

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