怒り、苦しみ、破壊し、創造する!世界プロレス式コミュニケーションガイド研究所所長の体験談ブログ(8)私がワンピースをキライな10の理由その8
2018/03/21
自分と他人との距離感
このブログは基本自分が毒吐きたくて書いてます。毒は自分の中にためておくと、だんだん大きくなっていってある日、暴発します。今回も私の「毒吐き」にしばらくお付き合いいただこうかとも思います。
この記事を書くにあたってワンピースを読破する気には毛頭なれなかったので、wikpediaなどでいろいろわからない点は調べていきました。なんとなく嫌い、ですませていると自分の中にある問題解決にならないためです。
そこで、かつて読み進めた一巻途中までで感じていた、違和感のいくつかが見えてきたので、今回はそれを書いてみようと思います。
私は自分と他人との距離感をうまく保てません。ですから集団生活の中に価値を見出すことが苦手です。ですから仲間への帰属という問題には不快感を抱きがちになります。
話はそれますが、私は自分の道具を人に無断で触られるのが嫌いです。結構無神経な人は私のパソコンとかでも許可なしに触ったりすることもあって、その場でやめてくれといえない自分自身に苛立ちを感じることも少なくありません。
道具というのは自分の身体の一部であって、そこを他人に土足で入られたくないのですね。こういう時に他人がうざいなあと心底思います。
自由と帰属意識
ワンピースでは個人の自由と仲間への帰属意識がニアイコールになっている感じが私にはします。想像ですが、ワンピースの読者である一般多数の方にはこのニアイコールというのは許容範囲内であり、むしろ共感ポイントであるとさえ考えられます。
仲間の中にいてこそ自分の自由が得られると感じているのかもしれません。私はそうは思えませんけどね。
しかし、私の感じる完全なる自由とは私が帰属したい時に帰属できて、一人でいたい時は一人でいられるものです。そうは言っても現実問題、しがらみをゼロにして生きていくことはできません。であれば自分の自由と他者への貢献を天秤にかけてより自分が生きやすい妥協点を探る必要があります。
ちなみに両親は完全に終身雇用以外の価値観を知らないため。実家にいる時は「どこかに就職しろ」と言い続けていました。会社がひとりの人間の面倒を見る時代はとっくに終わっているのにです。
近年の大企業の不祥事は、自分の生活を支えてくれる共同体をなんとか維持しようとして、法を犯す結果になった典型的な例かもしれません。そう考えると個人が犠牲になってでも形を保ちたい共同体って幻想なんじゃないですかね?少なくとも私はそう思っています。
共同体に幻想を持てた時代
ワンピースが連載を開始した1996年というのはまだ共同体に幻想をもつことができた最後の方の時代だったように思います。
実際この当時の私はその頼りにもならなかった共同体にしがみつこうと必死になっていましたからね。しかしその当時からワンピースには不快感をいだいていたので、もしかするとこの共同体幻想が崩れ去ることをなんとなく予見していたのかもしれません。
確かにいち早く新しい仲間との結びつきを描いた点では革新的だったとは思います。でも私にはいまだにしっくりこないのです。これはなぜなんでしょうか?
アニメ版ワンピースの代表的な主題歌に「ウィーアー!」「ウィーゴー!」といったタイトルがあります。実はこの歌自体は好きなんです。
作曲された田中公平さんも、歌っているきただにひろしさんも大ファンですしね。でも歌詞にはどことなく私があまり好きではない「WE ARE THE WORLD」に似た嫌な感じは感じているので、基本歌詞は耳に入れないようにしてます。
もしこれが一人称だったら、もしかしたら受け入れられていたかもしれません。しかし、WEという複数形にはなんか違和感を感じるのです。WEが主題になるより、個人がどうしたいかだろ?と思っている私には「ウィーゴー! 」も「ウィーアー!」もなんか違う感じがしてならないのです。
ちょうどいい距離感
群れというのは何も人間に限らず野生動物でも作ることはありますし、一匹狼という言葉が独り歩きしているオオカミだって、実は群れを作ります。群れには当然ルールがあって、その中で縛られて生きていきます、むろん広い意味で国という群れに住んでいる私も例外ではないわけです。
ですけど、「私たち」が「私」とニアイコールになる感覚というのは私としてはどうもしっくりこないのです。この微妙に個の自由と集団の自由がとっちらかっている状態には違和感しか感じません。
近年、組織の不祥事が数々浮上してきた中で、もう一度組織とは?仲間とは何か?を考え直す時期に来ているように私は思っています。できることは自分でやり、できないことが出てきたときには他人とつながっていいというゆるやかなつながりがあるというのは個の自由を保ちつつ、集団の新しい形としてこれからの組織の形を示していくものかもしれません。
しかしワンピースの仲間論がなんとなくうざく感じている以上に、そのワンピースが発表された年代にはすでに組織は機能不全になりはじめていました。そんな旧態依然とした組織がいまだに蔓延している事実は正直息苦しいとしか思えないのです。
できることなら、他人にうざさを感じないで済むちょうどいい距離感で、人と関わっていけたらいいなというのが私の願いではありますが、正直ワンピースくらいの距離感だとまだまだ私が考える自由な状態とはほど遠く感じます。
だからといって対案を示せるかといったらそれもないわけで、そこら辺のイラつきをワンピースの悪口を言うことで、すっきりしたくて駄文を書き連ねているのです。ワンピースに不快だと反応しているのはほかならぬ私自身なんで、答えを自分の中に求め続ける以外に解決法はないのです。
自分は本当にどうしたいのか?仲間と一緒にやっていきたいのか?あくまで孤高を貫くのか?それがなかなか自分の中からでてこないもどかしさは、自分と向き合うことでしか見えてきませんからね。それは実をいうと今でも結構続いているのです。